日産追浜工場内に現存する旧海軍の遺講 投稿者:秋水  投稿日: 8月 4日(土)21時30分28秒

>後藤さま
始めまして。
旧海軍関係の検索中に見つけました。そのマニアックな内容に驚きつつも、楽しく拝見しました。
私は、神奈川県横須賀市に在住し日産追浜工場内に勤務いたしております。
追浜は海軍航空隊、空技廠などが置かれた為、現存する遺構が多く見られます。その内いくつかお知らせいたしたいと思います。 (部隊名称はたびたび改称されているため、間違っている場合は御容赦ください。)

横空整備練習部格納庫

バンテック追浜営業所に現存する、もっとも古い鉄骨スレート葺き平屋建て倉庫。
現況 自動車部品保管倉庫として活用。
航空ファン イラストレイテッドNo109号 「海鷲とともに(榎本哲コレクション)」のP20,21に紹介されている写真がそうです。

横空庁舎(正式名称不明)

岡村製作所と道路を隔てて反対側にある、鉄筋コンクリート二階建ビル
現況 日産自動車総合研究所として活用。
今はすでに有りませんが、かっては対面の岡村制作所内に、木造平屋建ての士官クラブらしき建物が現存していました。

秋水格納庫及び中型陸上機格納庫

秋水格納庫は現存しませんが、格納庫扉の右横に植えられていた、明治憲法制定記念植樹は残っています。通路を挟んで反対側の中型陸上機格納庫は三棟の内、海側の一棟は現存します。
現況 陸上機格納庫は日産自動車三地区の大型プレス金型保管庫として活用。

夏島地区エンジン試験場付属建屋(正式名称不明)

夏島の住友重機追浜造船所と海洋科学技術センターとに分かれる丁字路の右側にある鉄骨スレート葺き平屋
現況 日産陸送乗用車車庫として活用

以上 日産追浜工場内に現存する遺講でした。なお空技廠の建物については、その多くが現存しており、浦郷 深浦地区の企業の事務所、工場として活用されております。
特徴として、外観から見て旧海軍の庁舎と解る物ばかりです。

おまけ

日産追浜工場で造られているマーチ、キユーブのエンジンは、愛知機械工業(旧愛知航空機)の熱田工場製です。永徳工場で作られたミッションも、追浜工場で使われています。
今はもう行かなくなりましたが、かって永徳工場の門前にある、永徳温泉に入った後の、永徳屋の味噌煮込みうどんを楽しみにしてました。
また、名古屋に行けたらいいなと思います。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。


Re:「南洋群島写真帖」 投稿者:liondog  投稿日: 7月 7日(土)20時31分53秒

残念ながら、南洋寺は出ていません。
日本病院も出ていないのですが、南洋庁サイパン医院というのが出ています。
ちなみに、彩帆神社も掲載されていて、その写真には狛犬が写っています。

http://homepage2.nifty.com/liondog/


「南洋群島写真帖」 投稿者:後藤  投稿日: 7月 7日(土)13時46分05秒

ありがとうございます。ほんと何なんでしょうね。
狛犬があったらliondogさんは興奮してしまうでしょうが、残念ながらありませんでした。

マニアックな本をお持ちですね。南洋寺の写真は掲載されていますでしょうか。

http://www2.odn.ne.jp/~cav33750/index.html


サイパンその3・4 投稿者:liondog  投稿日: 7月 7日(土)00時17分47秒

拝見しました。その3の2枚目の写真、確かに常夜灯の台座風で、しかも対になっていて、まるで参道に見えますね。しかし、その突き当たりの建物が、どう見ても神社には見えないです。何なんでしょう、あれは?
ちなみに、いま、昭和13年発行の「南洋群島写真帖」というのを見ながら拝見していますが、それらしい写真は出てきません。

http://homepage2.nifty.com/liondog/


砕天さん 投稿者:後藤  投稿日: 6月 9日(土)08時05分37秒

何か通常とは異なる構造物は気になりますね。
通勤途中の電車から見える風景の中や自動車などでよく通りかかる
ところにそのような物を見つけると、途中下車したり車を止めて
見に行きたくなります。

少し調べてみたら多摩川スピードウェイはもと球場だったようですね。

愛知県にもあるんですよ。これとよく似たものが。
ここです。

日本で最初のプロ野球の試合(名古屋金鯱軍 対 東京巨人軍)が行われた球場で鳴海球場という名前でした。
現在は自動車学校です。コンクリート製のスタンドなどが残っています。
地図で見ると球場そのものです。

長沢浄水場はどうしても自分の特撮物の記憶の中に出てきません。
あそこが科学特捜隊の一部の建物だったのでしょうか

http://nagoya.cool.ne.jp/gggyg/zakkisou/zakkisou.html


川崎2題 投稿者:砕天  投稿日: 6月 6日(水)19時31分49秒

●東急東横線が多摩川を渡るところの川崎側の上流、堤防の川側はコンクリートの段々になっています。階段にしては一段一段が大きすぎます。二玄社カーグラフィックによると、多摩川スピードウェイというダートの自動車サーキットのグランドスタンドだそうです。本多宗一郎のカーチス号も走ったらしい。日産は優勝しながらレース後にマシン内部を見せなかったため、中身が外車でないかと疑われて失格したことがあるそうです。
●特撮遺構探訪もの
特撮のある風景http://www.st.rim.or.jp/~val/local.html
こちらで長沢浄水場をみると、…


みなさん、ありがとうございます 投稿者:後藤  投稿日: 5月19日(土)23時19分45秒

反応が異常に遅くなりまして大変申し訳ございません。

・liondogさんへ

雑記草はお陰様で復活出来ましたが、遺構探訪は滞っています。

・わりばしさんへ

はじめまして。そうでしたか。消防署でしたか。
そういわれて見てみるとまさしく消防署ですね。
大きなシャッターは消防自動車の車庫ですね。
あそこの柵は入ろうと思えば簡単に入れるような気がしましたが、
出来ませんでした。

・えんたい5さんへ

はじめまして。ありがとうございます。
95年に調布に行った時、格納庫がないので近くの調布市の
郷土資料館へ行ってどうなったのか聞いたのです。
資料館の館員も余り詳しくはなく、古いゼンリンの住宅地図
を調べたら記載されているので、そこで初めてかつて格納庫があっ
たことを知ったようでした。

掩体壕は敵の爆撃に対して飛行機や戦車を守る物ですので
相当頑丈に作られています。だから壊すのにも結構費用と
時間がかかるのかも知れませんね。同じく軍施設であった三浦半島の剣崎の
砲台は畑の真ん中にあるのですが、そこの農家が邪魔なので
ダイナマイトで壊そうとしたそうでしたが、なかなか壊れないので
断念して現在に至っているそうです。

調布の掩体壕に関しては同好のネーモン氏(私のリンク集を参考に)
が詳しく調べられています。

・ネーモンさんへ

私も楽しかったです。またやりましょう。

・砕天さんへ

ご無沙汰しております。登戸研究所は行ってみたい遺構の一つです。
そこでは秘密兵器を色々研究していたと言うこと聞いたことがあります。

こういう旧軍関係の跡地はよく大学関係に払い下げられていますね。
大学に払い下げられるとそこにあった建物は有効利用されている確率
が非常に高いですね。工場として再利用するよりも教室や倉庫として
再利用するのはずっと簡単だと思います。遺構探訪を趣味にする
者にとっては都合の良いことです。

愛知県でも愛知大学や名城大学農学部試験場、名古屋大学太陽地球環境
研究所などは旧軍施設の跡地を有効利用しているため、遺構が沢山残って
います。

防衛庁の施設が近くにあるのは当然関係があるのでしょうね。

科特隊基地はもともと何の施設だったのでしょう。

鶴見のコンクリート製の箱は笠寺の高射砲陣地の物と
そっくりの構造ですね。おそらく弾薬庫でしょう。三角形の重心に
高射砲を据え付け、周りはそのコンクリート製の箱も含めて
盛り土が施されていたのではないでしょうか。

http://www2.odn.ne.jp/~cav33750/index.html


川崎・横浜2題 投稿者:砕天  投稿日: 5月10日(木)23時06分00秒

●先日、ラジオで神奈川県川崎市の明治大学生田(いくた)キャンパスは陸軍の(正式名称かどうか知らんが)登戸(のぼりと)研究所跡地(17万坪)の中にあり、木造の施設が複数(ふた棟?)残っているそうです。10年程前の取材からの話でしたが、使うのは困難になっているものの、遺構として取り壊しもできないので、まだあるだろうとのことでした。簡単に確認できるモノとしては大学生協売店前に陸軍の☆のついた鋳物の消火栓(機能してません)が学生の灰皿(上が凹んでる)として立っているそうです。隣接する生田中学校も敷地跡に含まれるそうです。すこし南には防衛庁の研究所もあるようですが関係あるのでしょうか? 科特隊基地跡も近くにありますが、これは関係ないでしょうね。
●横浜市鶴見区獅子ヶ谷1丁目60番地、現鶴見女子高・中グラウンド敷地内に高射砲台跡がかつてありました。駒岡1丁目5番地、旧三ッ池病院(元結核サナトリウムいまは病院さえ残っていない)に隣接する尾根筋道路わきにコンクリートの方形が正三角形の頂点に設置されていました。そのコンクリート製のものは中央向きの壁がなく、なかは空洞でした。肉厚は10cmに欠けていたと思います。10年くらい前にわざわざ取り払われたようですが、傾斜地のため、なににも利用されていません。砲身は近くの寺尾中学校の校庭を数十年前に掘ったとき、発見されたそうですが、屑鉄になったようです(伝聞)。


後藤さん、 投稿者:ネーモン  投稿日: 4月20日(金)23時11分15秒

昨日は久々にお会いできて楽しかったです。
1時間位しか時間はありませんでしたが、充実した一時でした。
次回お会いできるのを楽しみにしております。
御馳走様ですぅ〜。


調布飛行場掩体壕について 投稿者:えんたい5  投稿日: 3月 5日(月)01時12分48秒

 はじめまして。時折読ませてもらっている者です。大変よく調べておられると感心しております。
 私も戦跡になぜか惹かれるものがありますが、これをHPにまでされて公開するのはすごい!と思います。
 ところで、実家の近く、子供の頃遊んだ調布飛行場のことが出ていましたので昔の話を書かせてもらいます。
 もう25年くらい前の飛行場の話ですが、その頃は戦前に建設された南向きの大格納庫がありました。その半円形の大屋根の上に管制室がありましたが、階段が外についていたので風が強い日は上り下りが危険だと聞いてました。もう残ってないんですね。
 その頃、飛行場の出入りもほぼ自由で、空っぽの大格納庫の中に入ったことがあります。壁や大扉のあちこちの孔が空いていたので、昔の弾痕だったかもしれません。南北方向の滑走路の前の駐機場の傍には米軍の建てたカマボコ兵舎がいくつも残っていました。芝生に囲まれた部分に天井部分だけ露出しているコンクリート建物(一部天井が破壊されていて中が見えた)もありましたが、陸軍時代のものだったかもしれません。単発機用の掩体壕も大格納庫の東に東向きに1つ、北東少し奥まったところに1つ、東西方向の滑走路の東端、飛行場敷地と住宅地との境(今は野球場か運動場)に2つ残っていました。それから何かの基礎と思われるコンクリートの長方形の大きな塊も幾つか東端隅に放置されていました。掩体壕の写真は実家に残っているので捜してみようと思います。
 その外、掩体壕は確か滑走路の南の住宅街の中にも忘れられたように1つ残っていたと思います。以前、たまたまテレビを見ていたら土地の所有者がインタビューで「軍が勝手に建設して、今更取り壊すのも金がかかるので倉庫として使っている」と言ってました。これは飛行場敷地から外れているので今もあるかもしれません。
 このような戦跡関係のHPのますますの発展をお祈りしております。


以上は、新着順21番目から30番目までの記事です。

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