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0103雑記草
010323言葉には何か「気」というか「魂」というものが宿っていると言われることがある。言霊(ことだま)と昔から言われる。もともと言葉は実体ではなく人々の思考を何らかの符丁というか記号や音声に表したものなので、「言霊」というのは当たり前と言えば当たり前のような気がするが、改めて魂が宿っていると言われると何か不思議な気がしてくる。
特に人の名前というのは誕生すれば大抵はその人に特有の名前が与えられるので、常に新しい言霊が生まれて来ると言える。一方、例えば路傍の石などの場合、自動車などで踏まれて潰れて細かくなった石のそれぞれは砕かれる前の石とは違っているのだが、やはり石は石という名のままである。
かなり昔、アメリカで「Pet Rock」というものが流行ったことがあった。石をペットのように扱ったのである。その石も動物の形に似せたものではなく、そこらに落ちている石をペットのように名前を付けたりして世話をするのである。その石を商品として売っていたのだからアメリカは凄いところである。無能の人も顔負けである。日本でも売られていたが、流行しなかった。Pet Rockは特殊な例である。通常、路傍の石には人々の関心は殆どないが、生まれてくる赤ん坊には並々ならぬ関心はあるはずで、関心があれば名前が付くし、関心があるので魂が宿るのであろう。ただ魂があると言っても名前だけが一人歩きするのではなく人々が媒介するわけであるから、古代から言われる「言霊」とは少し違うだろう。
赤ん坊が生まれるとその瞬間は名無しであることが多いが、しばらくすると名前が付けられる。名前を付けられて時間が経つと、初めからその赤ん坊にはその名前しかなかったような気がするくらい、その名前が定着してくる。名前と実体が一致するわけである。そして名前だけでも人々を介して一人歩きできるようになる。つまり本人に一度でも会ったりしたことがあれば、名前を聞くだけでその本人を思い出すことができる。名前そのものが脳に働きかけるわけである。
従って子供の名付けに気を使う人は多い。漢字の画数を使った姓名判断を用いて名前を付ける人は若い人でもかなりいる。
筆者は画数を使った姓名判断を全く信用していない。占い全般をあまり信じていない方であるが、特に姓名判断はその根拠が希薄過ぎる気がするからである。人相学などで顔にその人の性格がよく出るというのは経験上、当たる場合が多いと思う。性格は養育環境、遺伝などによって決まる。顔の造作などは遺伝で決定されるので、統計的に顔でその人の性格をある程度読むことは可能だろう。性格が判ればその人の過去や未来を予想するのはできないことではない。しかし名前に用いる漢字やその画数などは名前を付けられる本人とは何ら関連性が出てこない。従って統計も入る余地がない。人との関連性がないという点では占星術などがその代表であると思われるが、歴史が長いせいか体系的な理論が構築されているような印象がある。
だが、姓名判断はそういう印象が全くない。画数は旧字体で数えるのが正しいとする流派もあれば新字体でやるべきだという流派もある。平仮名、片仮名などは画数をどう定義するかも流派によって異なる。画数の組み合わせでその名前を持つ人の運勢を見ようとしているのに、その根本となる画数が同じ字でも流派によって変わってくるようでは非常に心許ない。占星術でいえば、星の運行や位置関係から運勢をどう読むかは様々な流儀があると思うが、ある星を見て「あの星は火星だ」という人がいると思えば「違う、木星だ」という人がいる、ということはないだろう。姓名判断が当たらない根拠として漢字以外の文字を使う人々の運勢を占うことができないので、占いとしての普遍性に欠ける、というのがある。文字を持たない民族もあるので、この人々にとっては姓名判断は全くの無力である。ローマ字だろうとヒエログリフだろうと文字があれば画数を無理矢理定義することは可能であろうが、文字がなければどうしようもない。
だが、この批判は姓名判断の占いとしての普遍性を疑問視する根拠として妥当ではない。言葉に「魂」があると考えることができるのは、言葉が人間を媒体として成り立っている以上、どんな言語でも同じ筈である。
つまりその言語で使われる文字に合った占い方があって当然である。漢字による姓名判断をローマ字に適用するのは無茶なのである。やはり姓名判断が当たらないと考える根拠はそれが体系的理論的でない点だろう。
010324深海魚*1はどうしてあんな面白い形をしているのか。見慣れないから面白い形と思うのだろう。
幼少の頃から魚類の図鑑を繙いては、必ず目が釘付けになったのは深海魚の頁である。形だけではなく名前も「リュウグウノツカイ*2」といったような変わった名前の魚が多い。その変な名前が更に魚の珍しさを増幅させる。まさに言葉の気*3である。
筆者の好きな深海魚の一つに「オピソプロクタス」という名の魚がいる。名前が外国語なので「名前の気」が伝わってこないのだが、異様に惹かれる魚なのだ。図鑑に出ているその魚の顔は水木しげる*4の漫画に出てくる眼鏡を掛けて前歯が二本出ている、しがない中年サラリーマンの顔を彷彿とさせるのである。
この魚の名前は他の図鑑を見ても「オピソプロクタス」としか書いてない。和名がないのだろうか。日本語の名前が付けばもっと魚の奇怪さが際だつのに残念である。この「オピソプロクタス」という言葉はwww上に2001年3月23日現在存在しないようだ。どの検索エンジンを使っても引っかかってこない。日本語のサイトでローマ字表記の「Opisthoproctus」で検索しても出てこない。今、ここで「オピソプロクタス」と言う単語を掲載すれば世界で唯一「オピソプロクタス」と言う言葉が書いてあるサイトになる。「Opisthoproctus *5」は世界には沢山あった。
www上の「オピソプロクタス」の挿し絵*6を見ると図鑑で見かけた水木しげる型「オピソプロクタス」ではない。この魚に関する資料が殆どないのだろう。
オピソプロクタスの真実の姿が水木しげる型であることを切に願っている。
*1 Deep Sea Image Catalogue
*2 リュウグウノツカイ属
*3 姓名判断
*4 ナプーン
*5 Opisthoproctus - Google 検索
*6 Opisthoproctus soleatus
010325だんだん暖かくなってきたので、自動車で少し行った所にある池に、もうそろそろ冬眠から覚めているかもしれない野生の亀を見に行った。池の横に自動車を止めて双眼鏡で亀が甲羅干しをしている様子を眺めていた。
この日は池の岸付近の水面から斜めに出ている枯れ木の幹に3匹の大きな亀がいた。2匹は日本で野生化したミドリガメ即ちミシシッピーアカミミガメ。あとの1匹は日本固有種のニホンイシガメであった。甲羅干しをしている亀を眺めていても殆ど動かないので、すぐ飽きた。さて帰ろうと思って、エンジンを始動させ、自動車を走らせた。数メートル動いたところでいつもと違うエンジン音だな、と思いブレーキを踏んだところ、その瞬間にエンジンが停止した。
それ以降、いくら自動車の鍵をひねってもスターターが回るだけでエンジンが全くかからない。道で立ち往生してしまったので、自動車を押してそばの空き地に退避させた。幸い、妻が同乗していたので、彼女にハンドルを操作してもらえた。オートマチック車はスターターで自動車を動かすことが出来ないので、こんな時は不便である。
JAFを呼んで自動車を付き合いのある近くの自動車ディーラーまで運んでもらった。筆者はJAF会員なので作業の費用は全く発生しなかった。今回でJAFに世話になるのは2回目であった。
前回は夜の9時頃に道路を走行中、前後左側のタイヤ2本が同時にパンクしてしまった時であった。応急予備タイヤが1本とパンクタイヤ1本分の応急修理剤とを常備していたので、2本まではJAFを呼ばなくても自分で対処できる筈であった。しかしタイヤが2本とも裂けてパンクしていたのでパンク応急修理剤では全く対処できない状態であった。修理剤は釘が刺さる程度のパンクしか対応できない。従って応急予備タイヤが1本しかないのと同じ状態となり、結局走行できなくなった。
JAFを呼んでタイヤ交換が可能なガソリンスタンドまでトラックで自動車を運んで貰った。この時も作業費用は発生しなかった。今回の故障の原因はエンジンのそれぞれのシリンダーに装着されている点火プラグにエンジンの回転に同期させて高電圧を分配するディストリビュータの故障であった。ディストリビュータのどこが故障したのかは不明だが、修理工場でディストリビュータを交換したところエンジンがかかったということであった。修理代は税込みで53,266円。
使用年数9年、走行距離158,800km。初めてのエンジントラブルであった。
010326家の亀は冬眠に成功した。去年は冬眠させるかどうか悩み、結局、冬眠させることにした。
冬眠の途中は死ぬのではないかと心配していたが、現在は元気に活動し、日が照ればこのように甲羅干しをやっている。
甲羅干しの姿が面白い。水中から這い出てきて、甲羅が完全に乾き出す頃から後ろ足を写真のようにピンと突っ張る。この癖はミシシッピーアカミミガメだけのものなのか、イシガメやクサガメなどのヌマガメ類に共通なのだろうか。
ヌマガメ類の甲羅干しの目的は(1)体温を上昇させて活動しやすくする、(2)紫外線を浴びてビタミンDを形成し、それによってカルシウムを吸収させ甲羅や骨を形成する、(3)皮膚や甲羅を乾燥させて皮膚病を予防する、らしい。
甲羅干しという言葉から漠然と「甲羅」が甲羅干しの主役のような気がしていたが、家のカメの甲羅干しの様子を見ているとどうもそうではないような気がしてきた。
まず、(1)体温を上昇させるには日光の中に含まれる赤外線を出来るだけ沢山吸収しなければならない。これはカメの体で一番面積の広い甲羅が主体となって赤外線を吸収しているのだろう。
次に(2)ビタミンDを作るための紫外線はどこで吸収するのか。紫外線を必要とするのは最終的には硬い甲羅を形成するためなので、何となく甲羅で紫外線を吸収しているような気がしていたが、よく考えてみるとおかしい。紫外線は可視光線や赤外線に比べて物質を透過しにくい性質がある。例えば透明に見える一般の窓ガラスは殆ど紫外線を透さない。従ってガラス窓を透した日光でカメに甲羅干しをさせてもビタミンDが形成されないのでカルシウムが吸収されなくなり甲羅が軟らかくなってしまうらしい。
カメの甲羅は紫外線を十分透過させることが出来るのだろうか。カメの甲羅の最表面は角質板と呼ばれる皮膚が変化したものである。甲羅を見ると年輪みたいになっているので角質板は下から成長していくのだろう。カルシウムで角質板を作るためには角質板の下にビタミンDがなければだめということになる。従って角質板は紫外線を十分透過できなければいけない。しかしどう見ても透しそうにない。つまり甲羅では紫外線が当たってもビタミンDは生成されないのではないか。
では、どこで紫外線を吸収するのか。頭部、頚部、前足そして後ろ足の皮膚である。後ろ足の「突っ張り」は紫外線を十分吸収するための仕草と考えることが出来る。
010327物理定数に必然性はあるか。
飛行機や船の大きさには必然性がある。飛行場や港の規模でその大きさの制限が出てくるかも知れない。このような経済的地理的な制約ではなく物理的な制限も出てくる。地球より大きな飛行機や船は存在し得ない。構造物としての飛行機や船のような「形」をしたものは出来るかも知れないが、その大きさが地球に匹敵するものであれば飛行機や船としての機能は成り立たない。
逆に水素原子よりも小さな構造物は存在できない。勿論、水素原子より小さな飛行機や船は誰にも作ることはできない。
このように大きさ、重さ、嵩などは何らかの「定数」によってその範囲は決められてしまう。無限大、無限小というのは「物質」としてはあり得ない。
水素原子の半径は約10-10mで、これは地球上のどこでも同じ値である。おそらくこの地球を含む宇宙全体でも同じ筈である。そして開闢以来この値は変わっていないかも知れない。ただし、この値というは人間が出現して、科学が生まれてから判ったので、それまではどんな値だったのかは判らない。科学が発達する以前は毎年変化していた可能性もある。
しかしこの値はどうしてこの値になっているのだろうか。アボガドロ数の6.022×1023は何故この値なのか。このような定数は「その値」である必要性は全くない。違った値であったならば、その値で違った世界が構築されるだけで何ら今と変わらないだろう。尤も世界が変わるかどうかは比較しようがない。途中で変われば判るかも知れないが、最初からその定数で世界の全てが出来上がるのだから変わったのかどうかは判るはずがない。
では定数がこの宇宙の中でどこでも同じという保証は一体どこにあるのだろうか。この宇宙のどこかに地球上とは違う物理定数で構築されている場所があるかも知れない。
直径10cm程の水素原子が目の前にあったら何が起こるのだろう。水素原子単独では不安定なので何か他の地球上の通常の元素と結合しようとするのか、それとももう一つの巨大水素原子と結合して水素分子を形成するのだろうか。
この巨大水素原子は肉眼で見たり、触ったりすることが出来るか。肉眼で見るということは巨大水素原子に反射した光を感じることである。特定の色の光を反射すればその色に見える筈である。しかしどんな光を反射してどんな光が透過するのか全く想像がつかない。全部の光を反射すれば鏡のように見えるし、透過するのであれば何も見えない。
形も想像できない。現実の水素原子の姿を見た人間は存在しないのだが、漠然とその形は「球」と皆思っている。巨大水素原子が出現すれば、はじめてその形を触ったりして確認できるだろう。
それにしても水素原子や陽子や中性子などの大きさがどれでもどこでも同じと言い切ることが出来るのは不思議と言えば不思議である。
010328レンズ交換できる一眼レフのデジタルカメラが出始めた頃、一般の一眼レフカメラのフィルムの代わりにフィルムのような薄いCCDが装着できれば、手持ちの一眼レフカメラがたちまち高級デジタルカメラに出来ると考えていた。
やはり出てきた。SILICON FILM TECHNOLOGIES社が開発したElectronic Film Systemがまさしくそれである。今のところ、対応するカメラはニコンF5、F3、F90とキヤノンEOS-1N、EOS5なので筆者の所有する一眼レフカメラには対応していない。
(e)filmと呼ばれる丁度、フィルムのケース(パトローネ)からフィルムを10cmほど引き出したような形をしたものを普通のフィルムの代わりにカメラの中に入れる。フィルムを引き出した部分には画像取り込み素子が取り付けられていて、大抵のデジタルカメラの画像取り込み素子はCCDであるが、このシステムではCMOSイメージセンサが使われている。
CCDとCMOSとは光を電気信号に変換する原理が全く同じであるが、その電気信号を伝達する方法が違う。CCDでは光から変換された電気信号が半導体結晶の内部を伝わっていくが、CMOSでは一般のLSIチップと同じような方法で伝達させる。CCDの場合は結晶内部で電気信号を伝えるための仕組みを作り込まなければならないので一般のLSIの製造方法と少し違う製造工程が必要である。しかしCMOSイメージセンサは一般のLSIと同じ製造方法で出来、さらにLSIと製造方法が全く同じであるため簡単に信号処理の回路やメモリーなどを一緒に組み合わせることが出来る。その結果CCDよりも安くできる。
この(e)filmの解像度は1280 x 1024 pixels。普通のフィルムは36mm x 24.5mmの範囲で画像を捕らえるが、この(e)filmは10.8mm x 8.6mmの範囲しか画像を取り込めない。従ってカメラのファインダーで見える範囲が全部写るわけではなく真ん中の部分だけの画像が取り込まれる。そのため通常のフィルムと(e)filmとで同じ焦点距離のレンズで撮影しても写る範囲が変わってくるので、実効的な焦点距離は(e)filmの場合変化してくる。換算値は2.85で例えば200mmのレンズの場合、(e)filmで撮影すると200mm x 2.85 = 570mmのレンズで撮影したことになる。
心配なのはイメージセンサがむき出しになっているのではないか、ということである。保護ガラスがあるだろうが、どんなに気を付けていてもそのガラスを汚す可能性が全くないわけではない。普通のフィルムは撮影の度に新しいフィルムを使うのでいつもフィルム面は綺麗である。デジタルカメラではCCDに指で触れようと思ってもカメラを分解しない限り無理である。
汚れに関してはどうしようもないことだろう。通常のフィルム撮影との互換性を気にせずに、裏蓋を交換するなどして、通常の一眼レフカメラを簡単にデジタルカメラに変換できるシステムの方がいいかも知れない。撮影が終わって画像をパソコンに取り込む度に(e)filmを取り出すのは恐ろしい。
010329無洗米が気になる。環境汚染につながらないとか楽チンだとかいうことではない。無洗米という言葉が気になる。
初めてこの言葉を聞いたとき、「洗っていない米」という意味しか浮かばなかった。聞き慣れた今でも違和感が残っている。
洗米という言葉は「洗った米」という意味で昔からある。その「洗米」に存在しないとか打ち消しの意味の「無」を付ければ、どうしても「洗っていない米」という意味にしか取れない。他の「無」の付く熟語を見ればよく解る。無断は「断りが無い」、無限は「限りが無い」、無色は「色が無い」、無洗浄ならば「洗浄していない」である。
「無」が「〜しなくてもよい」という意味になるのは「無洗米」しかない。一体誰が名付けたのだろう。
「既洗米」とすべきだろう。「無洗米」の製造工程では小量の水でさっと洗っているので「既洗米」とすれば「精米」との区別も明確につく。
010330豚のスペアリブのオーブン焼きを作ろうと思って、材料集めをしようとした。五香粉(ウーシァンフェン)という香辛料を入れると中華風味がでるのでこれを近所のスーパーマーケットで探しだした。
ところがこれがどこにもない。最近は色々な食材が地方の食品スーパーでも売られる様になってきたと感じていた。そして五香粉は中華街でしか手に入らないような特殊なものではなく、一般の有名食品工業会社からも商品として販売されている。ここからも出ている。
五香粉は食品工業会社各社が出している筈であるが、近所の店の店頭には置いてなかった。最初に思い付いた店に行くと置いてない。次に少し大きな店に行った。やはりここにもない。更に大きな店に行ってみてもない。もしかして意外と小さな店に置いてあるかも知れないと思って覗いてみたが、やはり無かった。
近郊の大都市の商店街で如何にも通の香辛料を扱っている様な雰囲気の店で探してみたが、大して通でもなく、置いてなかった。最後に百貨店の地下食品売り場に行ったら置いてあった。
これだけ苦労して五香粉を手に入れてスペアリブを作ったが、思ったような味が出なかった。
スペアリブはspareribと綴る。spare(余分な)+rib(肋骨)。
010331ミニカーでよく知られるトミーが近頃、充電して走る「Bit Racer」というレーシングミニカーを発売した。全国の主要都市の一部では先月から先行発売していたが、全国発売は先々週からであった。
充電式の自走ミニカーは30年前にもあった。アメリカのMattel社が発売していた「Sizzler」である。これは日本でも「世界一はやいエレクトリックカー シズラー」という名前で発売していた。超高級玩具で当時これを購入できた家庭はそれ程多くなかった。筆者も当然買って貰えなかったので、唯一買ってもらっていた友達の家に入り浸っていた。
筆者が所有出来たのはせいぜい普通のミニカーで、これは手で動かしたり、坂を作って重力で動かすのが当たり前だと思っていた。そのミニカーが自分で動くわけである。しかもゼンマイではなく電気で。電気といっても普通の乾電池ではなく、充電池という当時の子供とってとてつもない未知の高度技術による電気であった。当時はよく解らなかったが、90秒の充電で5〜7分程度走ったようだ。
シズラーの30年後に発売されたBit Racerは30秒の充電で3分間走る。30年かけてこの程度か、と思いたくなるが、こればっかりを30年やっていたわけではないのだから仕方がない。
このBit Racerは超小型モーターが技術の中心である。このモーターは携帯電話のバイブレータに使われているものを改良したものらしい。といってもトミーがバイブレータ用のモーターを開発したわけではない。携帯電話の小型化が進んだのはこのバイブレータ用小型モータの開発が大いに貢献しているようだ。トミーは携帯電話事業にも参入しているので技術の流用を図った訳である。
それにしても30年前のシズラーにはどんなモーターが使われていたのだろう。何れにしろこの頃からミニカーに搭載できる程度の小さなモーターはあったのである。
こうして見るとシズラーとBit Racerとではあまり違いがないように思われるかも知れないが、Bit Racerは自分で部品を交換して好きなように改造できる。ミニ4駆のミニカー版みたいなものである。Bit Racerはまだ発売されたばかりなので部品の種類がミニ4駆に比べ圧倒的に少ないが、人気が出てくればどんどん増えてくるだろう。
30年前は21世紀になれば自動車はビルとビルとの間を縦横無尽に通る透明チューブの中を走っているだろうと思っていたが、未だに地面の道でガソリンを使って走っている。30年前に比べれば燃費や性能は向上しているが、基本構造は自動車の発明当初から殆ど変わっていない。玩具の自動車でも全く同じ歴史を辿っているのは本家がそうなのだから当然といえば当然かも知れない。
慣性というものがある。外力がなければ止まっているものは止まり続け、等速運動しているものはそのまま運動し続ける性質である。物質にはこのような性質が最初から備わっている。なぜ慣性という性質を持つのか。このような性質を定義すると様々な力学的な現象を上手く記述できるからだろう。
こういうのを一般的に「性質」というのだろうか。普通、性質といえばその物が他と違う点を表す言葉である。慣性は全ての物質について例外なく適応できる事なので、他との相違点を比較することが出来ない。
物質ではない光や物質なのか錯覚なのかよく解らない幽霊には慣性がない。ない筈である。つまり物質でないから慣性がない。物質とそうでない事との境目がはっきりしないと「全ての物質に慣性がある」とは言い切れなくなる。
ところがアインシュタインの有名なE=mc2によってエネルギーと質量が等価であることが、実感は全くないが、知られている。そうなると物質かそうでないかの境界線は恐らくぼんやりとした物であろう。それならば「慣性」を「性質」と理解しても変ではないかも知れない。
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