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0012雑記草


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001231

 明日から21世紀になる。昭和に生まれた筆者にとって21世紀は遠い未来のような気がしていたが、とうとう目前に迫ってきた。

 今までは「今世紀中での実現は難しい」という表現がよくなされてきた。20年ほど前に星野仙一が「今世紀中の阪神のリーグ優勝は不可能である」と予言したことがあった。数年後、見事はずれたが、こういう表現が日常で使われてきた。

 しかし明日からの「今世紀」は100年間もある。大抵のことは100年もあれば解決できるだろう。今日ならば、世の中の課題の解決の「今世紀中での実現は難しい」が、明日からは今世紀は100年間もあるので「今世紀中での実現は難しい」ことは滅多にないだろう。

 「今世紀中での実現が難しい」という表現は明日から50年ぐらいは滅多に使わなくなるに違いない。

001230

 シャンプー大島椿を使っている。いろいろ試してきたがこれが一番雲脂(ふけ)が出ない。数十年前は今ほどシャンプーの種類がなかった。一世を風靡したシャンプーはヴィダルサッスーンでも、チャンリンシャンでもない。エメロンエチケットシャンプーであった。

 「振り向かないで」のテレビジョンコマーシャルによってシャンプーと言えば「エメロン」と刷り込まれた。しかし筆者にとってこのシャンプーは雲脂増進剤となっており、頭を洗わない方が雲脂が出ないという非常事態を引き起こしていた。ジンクピリチオンという物質が配合され雲脂抑制効果が増強したメリットというシャンプーもあったが、筆者には効かなかった。ミカロンフケ止めシャンプーという雲脂を抑制するためだけの機能を持たせたシャンプーもあったが駄目であった。

 大島椿を母親から勧められ試してみたところ雲脂がピタリと止まった。それ以来、ずっと使っている。ただ、店頭に置いてあることが少ないので探すとき苦労する。

001229

 農業協同組合は最近「JA」と称しているが、かつては「農協」と呼んでいた。今でも農協と呼んでいる。

 「JA」の「J」はJapanの「J」で「A」はagricultural co-operativesの「A」である。そのマークはローマ字のJとAとを並べた単純な物である。

 農協の頃はマル農マークだった。農協のマークは丸に漢字の「協」の字を組み合わせたものである。「協」の「十」の部分が麦の穂にすることによって「農業」を表している。稲穂ではなく麦というのは「5円玉」の意匠との違いを明確にするためだろうか。

 麦の穂の「十」の字の足が円周とつながった部分をよく見ると円周の一部が切れているところがある。何故円の一部が切れているのか。これは「十」の縦棒、即ち麦の穂と「丸」で平仮名の「の」の字を表しているのである。丸が全部つながっていると「の」の字にならない。

 それにしても「十」と「力」とに囲まれた記号のような物が気になる。漢字の「力」を崩して図案化した物なのか、何かが飛び出す様子を示した線なのか。

001228

 ある程度、値段の張る買い物をする場合は、労力を使って価格比較を行ってから買う。新聞や雑誌の広告を集めたり、交通費と時間を使って店舗に足繁く通ったりする。そしてここが最も安いと判断し、購入に至る。

 比較検討中はどこかで突然、安売りをする可能性もあるので様々な広告に常に目を光らせておかなければならない。先日、デジタルカメラを買った。デジタルカメラ不要論を唱えていたのは、生来の物欲を押さえるための方便でもあったので、その隙を見てデジタルカメラの値段の動向はある程度把握していた。従ってカメラを買った当日はそれ程衝動買いの印象はなかった。

 買ってからも勝負は続く。買ったデジタルカメラを店頭で見かけては値段を見て自分の購入価格よりも高いことを確認しては自分の購入価格に間違いはなかった、勝った、と安心するのである。今回買ったデジタルカメラの購入価格は連戦連勝であった。

 今日の新聞に件のデジタルカメラを買った店舗のチラシ広告が入っていた。開店前に並んだ時と同じ値段で、しかも数量限定の目玉商品ではなく通常販売品目として掲載されていた。

001227

 先日、アポロの月着陸船について書いた。月着陸船に付いている4本の足の先にある皿の更に先に付いている棒のようなものはLunar Surface Sensing Probe(月面センシングプローブ)とも呼ばれるらしい。

 このプローブで月面に到達したかどうかが判るようになっていたようだ。先日の記事では着陸船のロケットエンジンが自動的に止まると書いたが実はそうではないらしい。

 この棒状のものは月着陸船の4本の足の内3本に付いている。付いてない足は宇宙飛行士が上り下りする梯子が付いた足にはプローブが付いていない。

 上空から月着陸船がゆっくりとロケットエンジンを下に噴射させながら月面に向かって降りてくる。月面に近づいて来たらそのエンジンを停止させなければならない。月面からまだ距離があるのに早めにエンジンを停止すると月の引力で宇宙船が月面に衝突してしまう。ぎりぎりまでエンジンを噴射し続けると、エンジンから吹き出た噴射ガスが月面から跳ね返って宇宙船をひっくり返してしまったり、跳ね返ってきた噴射ガスの熱で足や船体を損傷させてしまう。

 そこで月着陸船の足の先に付いた約1.5mのプローブの先が月面に触れると、その圧力で中の宇宙飛行士にエンジンを切る時を知らせる回路が作動するようになっているらしい。

 そしてプローブには表示板が付いていて月着陸船が月面に完全に足が着くとプローブが広がるのでそれを示すようになっているようだ。

001226

 幼少の頃、下校途中、いつものように道草を寺の周りでしていたら、道端でどんぐりを見つけた。樫や楢の木はいくらでもあるので全く珍しくないのだが、その時見つけたどんぐりは殻が少し破れて芽が出ていた。1、2cmだったと思う。芽の根本は緑色なっていて途中が赤紫色になっていた。今でもその芽が出かけたどんぐりを見つけたときのことを憶えている。それだけ芽が出たどんぐりというのは珍しいと思えたのだ。

 どんぐりの芽と言っても実際は根である。拾ってこのどんぐりの芽を折らないようにして家に持ち帰った。そして家の庭先に埋めた。早く葉っぱが出るようにと「芽」を上の方にして埋めたような気がする。

 暫くすると葉っぱが出てきた。2、3年後にはどんぐりがなったような気がする。そして更に何年か経って、知らぬ間に自分の背よりも高くなってしまった。途中、枯れかかった時もあったが、今も健在である。
 八朔みかんを食べたときに中の種が少し芽を出していたので、それを蒔いて育てたこともあるが、1、2年したところで葉っぱを全部虫に食われて枯れてしまった。木を種から育ててうまくいっているのはこのどんぐりの木だけである。

001225

 20世紀における人類の科学史上で最も華々しいイベントはアポロ11号による月面着陸だと思う。今から30年以上昔の出来事であるが、30年も前に地球以外の天体に人類が初めて行って帰ってきたのである。

 何故アポロか、というと年賀状のデザインを考えていて、アポロ計画の写真を使って作ろうと思ってインターネットで集めた写真を眺めていてそう思った。月に行って帰ってくる技術は我々の実生活にはまだ殆ど関係がないが、凄いことだと思う。飛行機で空を飛ぶことの延長と考えることが出来るかもしれない。しかし空を飛ぶことは既に太古の昔に鳥が達成していることだが、月へ行くことはおそらく地球上の生物では初めてであろう。そういった意味で凄いと思う。

 アポロ計画で使われたロケットはサターン5型と呼ばれる多段式のロケットだった。イーグルと呼ばれた月着陸船を地球から月に運ぶためにはこのような巨大なロケットが必要だった。多分今でも必要なのだろう。

 人類が初めて月面に立つために使用された宇宙船は虫のような形をしていた。二人の宇宙飛行士が乗り込む部屋とロケットエンジン付きの台で構成される。宇宙飛行士が乗り組む部屋には月面から飛び立つ為のロケットエンジンを搭載されていた。これは月面に着陸するときに使用したロケットエンジン付きの台は月面に残して、身軽な状態にして帰還するためである。
 ロケットエンジン付きの台には足が4本付いている。四本足の先には月の砂に宇宙船の足が潜り込んで宇宙船が傾いて着陸しないように皿みたいなものが付いている。

 その皿の下に更に棒状のものが付いている。これはランディング・プローブと呼ばれるもので、月面着陸の際、月着陸船の足が月面に近づいてくると、まず、このプローブが月面に接触する。接触すると自動的に着陸船のロケットエンジンが停止するようになっていたらしい。
 このプローブは写真で見るとかなり長い。1mぐらいはありそうである。月の砂は地球の海岸の砂浜のようになっているのだろうか。このプローブが月の砂浜にずぶずぶと入っていったのだろうか。どうして今まで誰も行ったことがないのに月の砂の深さが判ったのだろうか。このプローブの存在を知ってからの疑問であった。

 月面に着陸した様子の写真をよく見るとプローブは月面に刺さっていなかった。折れ曲がっていた。もう一つ気付いた。足は4本だがプローブは3本であった。

001224

 先日、虹の写真*1について書いた。この記事に関して感想を頂いて、その返事を書いていたところ雲の中に出来た虹の写真を撮ったことがあることを思い出した。

 これが雲の中の虹の写真*2である。写真中央付近に左から「赤、橙、黄、緑」となっているのが辛うじて分かる。肉眼ではもう少し鮮やかに見えていたような気がしたが、写真で見るとそれ程でもない。虹と言えば大抵、足の部分だけが見えることが多く、弓形に全部見えることは珍しい。しかし空に虹の一部分だけがぽっかり浮かんで見えることはあまりないような気がする。だからこの写真の虹を「雲の中の虹」と言うわけである。

 これの虹は一般の虹と大きく違うところがある。写真の左側に太陽が出ている。太陽の周りに出来た虹の一部分なのである。通常、こういう現象は「虹」とは言わず「*3」というが、この時のは殆ど虹と同じように鮮やかな色をしていたので虹と言った方が相応しいように思えた。虹は外周が赤だが、この「*4」は内周が赤だった。



*1 虹(2)
*2 kumoniji01.jpg
*3 15.暈(Halo)
*4 日暈 ハロ

001223

 竹とんぼはどこで発明されたのだろう。日本なのか中国なのか。韓国か。ヨーロッパではないような気がする。アメリカではないだろう。そもそも竹はアジアだけの植物なのだろうか。

 竹とんぼは竹で作る。孟宗竹から幅1.5cm長さ15cmぐらいの大きさに切り出す。竹が太過ぎると竹の肉厚が厚くなるので、直径5cm以下の竹がいい。あまり細いと曲がりがきつくなるが端を削ってやれば曲がりは補正することが出来る。

 竹をプロペラのように角度を付けるため小刀で削っていく。通常は表だけだが、裏にも角度を付ける人もいる。中心から対称になるように先に削った反対側も同じように削る。

 竹とんぼの尻尾は二通りある。プロペラに固定する方法とプロペラと尻尾を固定しない方法である。プロペラに固定する場合は中央に一つ穴を開けて細く削った竹を差し込む。差し込んだ竹ひごがプロペラの回転の中心にないと竹とんぼがふらついてうまく飛ばなくなる。
 固定しない方法では穴を二つ開けて、その二つの穴にうまくはまるように二股になった尻尾を作る。回転させてプロペラだけを飛ばすので穴の位置は固定式よりもそれ程厳密になってなくても良い。ただし尻尾とプロペラは離れやすいように穴を少し大きめにしておく。

 飛ばすときは尻尾を左手の手のひら、右手の指先で挟んで、右手を前に出し、左手を引いてプロペラを回転させる。プロペラの回転する面を地面と平行、つまり尻尾を地面に垂直にして回転させれば竹とんぼはヘリコプターの様に真上に上昇する。ものを両手で放り投げる様にして両腕に勢いを付けて回転させれば、思った方向に竹とんぼを飛ばすことが出来る。

 注意したいのは他人が作った竹とんぼはうまく飛ばないことがあることだ。上に書いた飛ばし方は右利きの場合である。左利きの人がやるとプロペラの回転が上から見て右回りになる。右利きの人が竹とんぼを作るときは竹を左手に持って小刀を右手に持つ。従って出来上がるプロペラは左回り用に出来上がる。右利きの人が尻尾を回転させる場合は上のように左回りになるのでうまく飛ぶが、左利きの人が飛ばそうとしても右回りになってしまうのでうまくいかない。

 つまり竹とんぼは作ることろから遊ぶところまで自己責任の玩具ということになる。

001222

 名古屋の地下鉄のマークはこれである。名古屋の市章はマルハチなのでそれを更に現代的に図案化したものである。

 何故「八」の字の下の部分の丸が切れているか。これは「丸」の部分がトンネルを表し、「八」の部分はトンネルの奥に延びている線路を表している。つまり「八」の字が遠近法で描かれた線路になっている。しかも丁寧に線路の太さも奥に行くほど細くなっている。「八」の字の下がつながれていると絵がトンネルに見えなくなるだろう。

 円と尖った二本の線との単純な構成で平面的な図柄の「マルハチ」と立体的な地下鉄のトンネルの様子を同時に表現している。秀逸なマークと思う。サンマイクロシステムズと同じぐらい好きなマークである。

001221

 3kg5000円相当の福井産のコシヒカリを食べた。コシヒカリの本場は福井らしい。何故「3kg5000円」ではなくて「3kg5000円相当」か。それはクレジットカードの点数を集めて貰ったものだからである。使っているクレジットカードでは1点が1円相当の商品交換比率になっている。貰える点数はクレジットカードで買った商品100円につき1点であるので、5000点たまったということは50万円使ったことになる。点数には有効期限がある。期限が差し迫っているときにもう少しで交換可能な点数になっていると、点数を稼ぐためにカードを使うという、完全にカード会社の思う壷にはまる場合がある。以前、その手に乗ってしまった気がするし、今回もそんな感じで点数を貯めたような気がする。

 ある日の夕飯に出たご飯がいつもと違うような気がした。一瞬そう思っただけで特に口に出してそのことを言わなかった。翌日の朝、妻に「昨日のご飯はあのお米だったけど」と言われた。あの一瞬の思いはそのせいか。もったいないような気がした。

001220

 ドライアイという病気がある。最近は新しい用語をなんでもかんでも英語の片仮名表記にするので何とも情けない気分である。もう少し訳語を工夫するということをしないのだろうか。ドライアイは純粋な日本語で言うと「涙液分泌減少症」らしい。この「涙液分泌減少症」という表記も元々は中国語から借りてきた表現方法だから今の英語を片仮名表記するのとあまり変わらないかもしれない。

 「涙液分泌減少症」が長くて言い難いのなら、せめて「乾き目症」ぐらいにして欲しい。ドライアイのような安易な英語の片仮名表記は英語教育にも支障があるのではないだろうか。
 エステティックの綴りが「aesthetic」というのをつい先日知った。エステが「a」から始まるとは。エアロビクスが「a」からはじまることを知ったときはそれ程違和感がなかった。空気に関係している言葉なので、「aero-」は「air」の綴りから想像できた。しかしエステティックは意外だった。

 眼球を潤す涙は涙腺から分泌され、涙点から鼻に排出される。涙点は涙を排出するための小さな孔で上下のまぶたの鼻側に付いている。

 ドライアイは涙の量が少ないので涙が眼球にとどまらず涙点を通って流れてしまう症状である。まばたきの回数が減り眼球から涙が蒸発する量が減った場合にも起こる。その治療に涙点を塞いでしまうというのがある。この写真のように涙点を塞ぐ

 塞ぐには涙点プラグを使う。プラグにははずれないような工夫がしてあるようだが、はずれてしまうものらしい。だから涙点を焼却して恒久的に塞ぐ方法もあるらしい。しかし焼いても数年後には半数は涙点が元に戻るらしい。

 涙の蒸発量を減らすにはまばたきの回数を増やしたり、涙が蒸発しないような眼鏡を掛ける。まぶたを大きく開くと眼球が空気に触れる面積が多くなるので涙が蒸発しやすい。視線を下方にすると上まぶたが下がってくるので涙が蒸発し難くなる。パソコンのモニタや本は視線が下になるようにして見るとドライアイになりにくい。

001219

 ヨーロッパの各言語数詞がどうなっているか気になったので表にして比較してみた。

 見方は日本語ならば「30」を「さんじゅう」と表現するので「10が3つ」と言う意味で「10*3」とした。「13」ならば「じゅうさん」で「10と3」だから「10+3」となる。英語ならば「30」は「thirty」と言うので、これも「10の3倍」と言う意味だから「10*3」とした。「13」は「thirteen」なので「3と10」で「3+10」としている。

 「thirty」の-tyはドイツ語の20から90に使われる10を表す接尾辞-zigが変化したもののようだ。古い英語では-tigだったらしい。ドイツ語の10はzehnなのでこれが変化してzigになったのは分かりやすい。

 フランス語やポルトガル語の11から15、16で11(1+10)とあるのは、例えばフランス語ならば11は「onze」、12は「douze」と規則性があるものの10を表す-zeともともとの10である「dix」とがあまり似ていないので固有の表現と見なした。見方によっては「dix」のdが省略されて-ixが-zeに変化したとも考えられる。

日本 英語 ドイツ語 フランス語 イタリア語 ラテン語 ロシア語 ポルトガル語 スペイン語 エスペラント語
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2
3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
5 5 5 5 5 5 5 5 5 5 5
6 6 6 6 6 6 6 6 6 6 6
7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7
8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8
9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9
10 10 10 10 10 10 10 10 10 10 10
日本 英語 ドイツ語 フランス語 イタリア語 ラテン語 ロシア語 ポルトガル語 スペイン語 エスペラント語
11 10+1 11 11 11(1+10) 1+10 1+10 1+10 11(1+10) 11(1+10) 10+1
12 10+2 12 12 12(2+10) 2+10 2+10 2+10 12(2+10) 12(2+10) 10+2
13 10+3 3+10 3+10 13(3+10) 3+10 3+10 3+10 13(3+10) 13(3+10) 10+3
14 10+4 4+10 4+10 14(4+10) 4+10 4+10 4+10 14(4+10) 14(4+10) 10+4
15 10+5 5+10 5+10 15(5+10) 5+10 5+10 5+10 15(5+10) 15(5+10) 10+5
16 10+6 6+10 6+10 16(6+10) 6+10 6+10 6+10 10+6 10+6 10+6
17 10+7 7+10 7+10 10+7 7+10 7+10 7+10 10+7 10+7 10+7
18 10+8 8+10 8+10 10+8 8+10 20-2 8+10 10+8 10+8 10+8
19 10+9 9+10 9+10 10+9 9+10 20-1 9+10 10+9 10+9 10+9
20 10*2 10*2 10*2 20 20 20 20(10*2) 20 20 10*2
21 10*2+1 10*2+1 1+10*2 20+1 20+1 20+1,1+20 20+1 20+1 20+1 10*2+1
日本 英語 ドイツ語 フランス語 イタリア語 ラテン語 ロシア語 ポルトガル語 スペイン語 エスペラント語
30 10*3 10*3 10*3 10*3 10*3 30(10*3) 30(10*3) 10*3 10*3 10*3
40 10*4 10*4 10*4 10*4 10*4 40(10*4) 40 10*4 10*4 10*4
50 10*5 10*5 10*5 10*5 10*5 50(10*5) 10*5 10*5 10*5 10*5
60 10*6 10*6 10*6 10*6 10*6 60(10*6) 10*6 10*6 10*6 10*6
70 10*7 10*7 10*7 10*6+10 10*7 70(10*7) 10*7 10*7 10*7 10*7
80 10*8 10*8 10*8 20*4 10*8 80(10*8) 10*8 10*8 10*8 10*8
90 10*9 10*9 10*9 20*4+10 10*9 90(10*9) 90 10*9 10*9 10*9

 こうやってみてみると1から10まではどこも同じ様な数え方をしている。つまりそれぞれの数に対して固有の言い方をしている。ところが11以上になるとバラバラである。ポルトガル語とスペイン語は11から15までフランス語と同じなのにフランス語だけ16まで固有の数詞になっている。

 なんとラテン語では18、19が20からの引き算になっている。ロシア語は40と90が独自の数詞になっている。

 やはりヨーロッパの言語の数詞があまりにも非合理的なことは気付いていたのだろう、人工言語のエスペラント語はちゃんとした十進法になっている。この表には載せなかったがヒンディー語は1から100まで全て固有の数詞になっているらしい。

001218

 フランス人は麻雀が出来るか。おそらく出来ないに違いない。牌を積み上げたりポンやチーは出来るだろうが、点数計算がすぐに出来ないだろう。フランス語の数詞を考えると暗算や数の暗唱が簡単に出来ないようにしてあるとしか思えない。

 麻雀の点数の計算を憶えるときは子で20符1飜ならバンバンを付けて700点、2飜なら1300点を「ナナヒャク(700)、イチサン(1300)、ニンロク(2600)、ゴンニ(5200)」、親なら「セン(1000)、ニセン(2000)、ザンク(3900)、チッチ(7700)」と憶える。表にするとこうなる。

5飜
4飜
3飜
2飜
1飜
1飜
2飜
3飜
4飜
5飜
満貫
チッチ
ザンク
ニセン
セン
20
ナナヒャク
イチサン
ニンロク
ゴンニ
満貫
満貫
ピンピンロク
ゴッパー
ニック
センゴ
30
セン
ニセン
ザンク
チッチ
満貫
満貫
満貫
チッチ
ザンク
ニセン
40
イチサン
ニンロク
ゴンニ
満貫
満貫
満貫
満貫
クンロク
ヨンパー
ニーヨン
50
イチロク
ザンニ
ロクヨン
満貫
満貫
満貫
満貫
ピンピンロク
ゴッパー
ニック
60
ニセン
ザンク
チッチ
満貫
満貫
満貫
満貫
満貫
ロッパー
サンヨン
70
ニッサン
ヨンゴー
満貫
満貫
満貫

 ヨーロッパの言語の数詞はちゃんと十進法になっていないので憶えにくいのではないか。英語やドイツ語だと12まで固有の数詞になっているし、フランス語だと16までである。しかも20はvingtで2のdeuxと10のdixとでは全く類推の効かない違う綴りだ。
 70はsoixante-dixで「60と10」、80はquatre-vingtsで「20の4倍」、90はquatre-vingt-dixで「20の4倍と10」だから麻雀の符の計算は暗算では出来ないだろう。麻雀にはこういう計算は出てこないが、例えば彼らは25+45+10+10をどうやって計算しているんだろう。

001217

 ディペシュ・モードというイギリスのポップグループがいた。今もいるだろうか。Depeche Modeと綴る。15年ほど前、CDコンパクトディスクがようやく普及し出して、レンタルレコード屋にCDコーナーが出始めた頃だった。

 ディペシュ・モードのCDはレンタルレコード屋には到底ないから買いに行っていた。輸入盤を渋谷のタワーレコードか六本木のWAVE迄買いに行っていた。

 久しぶりにCDを聞く。「People are people」「Master and Servant」等、大好きだった曲を久しぶりに聞くと懐かしさがこみ上げてきた。

 レコードレーベルは「MUTE records」である。このミュートレコードのマークも気に入っていた。歩く人を上から見た様子を図案化したものである。ここもまだあるのだろうか。

 両方ともまだあった。

001216

 今から7年半ほど前、仲間でサッカーチームを作った。Jリーグが始まった頃だった。「しリーグ」ではなく、Jリーグである。チームのユニホームはユベントスに似せた白黒の縦縞。チームのマークはこれ。意匠は筆者が考案した。このステッカーを会費で作り、各メンバーの所有する自動車に強制的に貼らせた。チームの名前は「Piqut8 Japon」で読み方は「ピケユイトジャポン」であったが、メンバーでこれを知る者は殆どいなかった。通称は「ピケエイト」「ピケハチ」だった。

 チーム名の由来はある菓子の名前による。「ピケエイト」という名の菓子があり、これからチーム名のヒントを得た。ヒントを得たというよりそのままではないかといわれそうだが、菓子の「ピケエイト」は「Pique8」でチーム名は「Piquet8」で発音しない「t」が入っている。「Piquet」はフランス語で意味は「杭」である。「8」はグランパスエイトのエイトに勝手に因んだ。グランパスエイトの8名古屋の市章からである。

 チームの実力といえば「自信を付けさせてくれる」と評判といわれるぐらいで、対戦申し込みが殺到していた。

 今から2ヶ月程前、このサッカーチームを廃部するという知らせが来た。試合にメンバーが全く集まらなくなったからである。筆者も5年以上もの間、試合に参加していなかった。設立当初は3年保てばいいところだと思ったいたが、結構長く続いていた。何か一つの時代が終わったような気がした。

001215

 先日書いた三越の商標の秘密に関して。目出たい数字、祝いの数字としての七五三と書いたが、別の見方を考えた。

 「みつ」は三、「こ」は五、「し」は七(しち)ではないだろうか。跳ねのかすれの位置関係からしても上から「三」「五」「七」になっている。もともとかすれの本数には必然性がないから「七」「五」「三」でもよさそうだが、そうはなっていない。

 こういう暗号というか判じ物というか、このような物は制作者の遊び心が感じられて非常に楽しい。本当は遊びではなく商標の偽造防止や生産者だけに判るようにしてある判別マークなのであるが、それをどのように入れ込むかは制作者のセンスに依ってくる。

 キリンビールの麒麟マークに潜む「キリン」という文字は結構有名である。また戦前の紙幣でも偽造防止のために絵柄の中に片仮名が数個入っているものがあった。現在の紙幣はマイクロ文字がふんだんに使われている。日本たばこは専売公社時代に「専」の字の草書体をデザイン化したマークを長く使っていた。このマークにはタバコの生産工場を判別する暗号が入っていた。

001214

 ダイヤモンドに孔を開けることは可能か。装飾用にダイヤモンドを削ることは出来る。指輪等に付いているダイヤモンドは研磨して形を整えたものである。ダイヤモンドは一番硬い物質なので、ダイヤモンドを削るための研磨剤はダイヤモンドの粉である。

 孔を開けようとするならばドリルを思いつくが、ダイヤモンド製のドリルをどうやって作るかが問題になるだろう。超音波加工機ならば研磨剤を使ってキツツキが幹に穴を掘るようにするわけだから、普通のドリルのように先端を螺旋状に加工しなくてもよい。孔開け工具は尖っていればいいので製作は簡単である。超音波加工機ならば鋼鉄の工具でダイヤモンドの粉を使えばダイヤモンドに孔を開けることは出来るようだ。

 レーザを使う方法がある。紫外線レーザを使えばダイヤモンドの炭素原子の結合エネルギーよりも大きなエネルギーを与えることが出来るので、ダイヤモンドを構成する炭素原子をダイヤモンドから乖離させることが出来る。レーザ光を当てた部分の炭素原子だけがダイヤモンドから離れていくので、そこに孔が出来てくる。

 実際にダイヤモンドにエキシマレーザを使って孔を開けたことがある。削りカスが一切出なかった。ダイヤモンドから乖離した炭素原子は直ちに酸素と結合して二酸化炭素になったためだろう。

 それでは何のためにダイヤモンドに孔を開けたのだろうか。それは聞かないで頂きたい。

001213

 昨日、数の子を買いに行って来た。毎年この時期に数の子を買いに行く。家で食べるだけでしかも殆どは筆者が食べてしまうので、化粧箱に入っている必要は全くない。そして形もどうでもよい。屑の数の子で十分である。

 店の主人によると買い求める数の子は化粧箱に詰める時に出た半端を集めただけの物なので品は確かであるという。半端ものを集めたものだから化粧箱ではなくビニール袋に入れてある。袋の中には北海道留萌の(株)加藤水産の商標札が入っている。商標も登録してある。登録番号第3272938号。品質はこれで保証されている。筈である。確かに去年、一昨年と買った数の子は粒がしっかりと固まっていてぽろぽろとこぼれることはなかった。安物の数の子は身が締まっていなくて形がすぐ崩れてしまう。これでは歯ごたえを味わうことが出来ない。

 店を覗くとそこの主人が筆者の顔を見るなり、私に「去年、数の子をお買いになりましたよね。年1回しかいらっしゃらないけど憶えていますよ」と言った。嬉しくなってしまった。とは言っても数十キロも買う気になったわけではない。去年と同じ量を買うつもりだ。店の主人が私を憶えていたのは料理とおよそ関係のなさそうな風体の男が1キロも数の子を買っていったので少しは記憶に残ったのであろう。

 「去年と比べて値段はどうですか」と聞くと「去年は500gが4500円でしたから100円高いですね。判りました、去年と同じ4500円でいいですよ」と言われた。「じゃ、二つ下さい」と今年も1キロ買ってきた。消費税も50円まけてくれた。

001212

 酒は飲めないのだが、酒の席での話しが好きなので誘われるとほいほい出かけていく。先日、ワインをみんなで飲もうと言う集まりがあったので出かけていった。

 その時「七五三は三越が仕掛けた」という話題が出てきた。話題を提供した人は既に酔っぱらっていたので、その根拠が明確にならなかった。その所為か話題を出した本人以外はだれもそのことを信じようとしなかった。

 七五三の行事は江戸時代から始まったらしい。どうも着物が絡む行事として捉えられているところを考えると呉服店の三井越後屋が仕掛けたとしても不思議ではない。

 このことと関係があるかどうかは分からないが三越の商標である「マルコシ」マークは七五三に関連している。これは荒俣宏著作に書いてあった。マルコシマークをよく見ると「越」の字の跳ねのかすれの部分の数が七五三になっている。「越」の走繞(そうにょう)の右下の足の部分が七つ、走繞の真ん中の短い横棒の跳ねのかすれが五つ、旁の部分の点が三つになっている。

 調べてみるとこの七五三マルコシマーク(第236205号)は昭和に入ってから商標を登録しているようだ。それ以前のマルコシマークは特に七五三になっていない。 初期のマルコシ商標も七五三になっていない。

 三越と年中行事の七五三との関係は薄そうである。しかし七五三は祝い事の数字なので百貨店の商標に取り込まれたことはごく自然なことなのであろう。

001211

 写真を整理していたら、の写真が出てきた。そういえば虹が全部見えて珍しかったから写真を撮った憶えがある。副虹も写っている。

 写真をよく見ると虹の内側が外側よりも明るく見える。これは写真に撮るとこうなるのではなく、実際に虹の内側が明るく見える。これは虹の内側が明るくなっているのか、それとも虹の外側が暗くなっているのか、どちらなのだろうか。虹が出ることによって空の明るさが変化するというのは不思議な感じがする。

 空中に浮遊する水滴に太陽光が反射、屈折して虹が見えるのは分かるが、虹以外の部分で何か光が変化を起こしているというのはすぐに理解できない。一体、何が起こっているのだろう。

001210

 ある著書の翻訳本を読んでいたらこんなことが書いてあった。「百聞は一見に如かず」という馴染みのあることわざがあるが、自分の目で見たり、器械を通して感じ取っていることは果たしてそれは事実だろうか。

 何を言いたいのかよく分からないと思う。「百聞は一見に如かず」と見た物が事実であるかどうかは関係ない。おそらくこれはSeeing is believing. という英語の諺の誤訳であろう。受験参考書などではSeeing is believing. を「百聞は一見に如かず」と訳すとよく書いてある。

 こう訳すと前述の文は何を言っているのか分からなくなる。「見ることは信じること」と訳せば意味は通じる。

 「百聞は一見に如かず」は百回聞かせるよりも一度見せた方がまさっている、という意味であって、見せた事物を見せられた人が本当だと思い疑わなくなるわけではない。中には見せられても信じない人はいる。飽くまでも人に説明するときは話しを聞かせるよりも見せた方が断然いいと言っているだけなのである。
 しかしSeeing is believing. の方は「見ること」と「信じること、疑わないこと」が同じ事だと言っている。英語圏の人は見たら疑えないのである。

 Seeing is believing. を「百聞は一見に如かず」と訳すのは場合によっては誤訳になると思う。

001209

 幽霊とは何か、と聞かれると何と答えるべきか困ってしまう。幽霊会社とか幽霊人口という場合は亡霊が経営する会社でもお化けの人数と言った意味ではない。この場合は実際には存在していないのだけれども手続き上存在するように見せかけているだけ、といった意味である。そう言った意味の「幽霊」ではなく、怪談などに登場する幽霊のことである。

 今まで目の前で話していたり色々なことで係わっていた人が、突然死んでしまって全く動かなくなったら、今まで喋っていたり考えていたりした「精神」どこに行ってしまったのかと思いたくなるのが人情だろう。今まで動いていた肉体はそこにあるのにそれを動かしていた精神だけがどこかに消えてなくなってしまうと言うのは何か気が済まない。

 これが幽霊や霊魂の発想の根本ではないかと思う。ただし、そこには生とと死との明確な境界がなければならない。幽体離脱とか生き霊というのがあるが、これは死者の霊から派生した考え方ではないかと思う。

 霊の発想は普通に人間以外の動物にも適用されてきた。等の霊の話しはよくある。 それでは人間以外の動物ではどこまで幽霊が出来るのだろうか。どこまでと言うのは生物はヒトを頂点として、それ以外は人間よりも下等であるという考え方なので不遜の極みではあるが、この際話しの進行上、仕方がない。

 哺乳類の幽霊はそれ程違和感がない。しかし鳥類、爬虫類となってくるとそれらの幽霊というのはちょっと怪しくなってくる。両生類、魚類、頭甲類、そして脊椎動物以外の動物の幽霊という発想は全くなくなってくる。

 数十年前、人間が死ぬ瞬間に少し体重が減るということが判ったという研究が報告されたことがあった。この体重の減少分が人間の魂であるというようなことが言われていた。この現象は人間特有なのだろうか。人間以外の動物に関して同じ様な実験をしたかどうか分からないが、例え実験をしていなくてもその現象の原因が判らないのに人間だけに起こると決めつけるのは早計だろう。

 そうなるとどこまでの動物にこの死ぬと体重が減るという現象が見られるのか。うまく説明が出来るような気がしない。アメーバやウィルスにも幽霊があるのか。人間が息を引き取ると体重が減ったのは、実は水分の体からの蒸発や腹部の内容物が放出された為ではないだろうか。

 ところでシュレディンガーの猫はいつ幽霊になるのだろう。 

001208

 今から20年前、大学受験浪人をしていた筆者は迫りくる2回目の大学受験に備えて猛勉強をしていた。予備校に通っていたが、この日は休みだったのか、予備校に行くのが億劫になったのか自宅で机に向かって勉強をしていた。確か夕方だったと思う。勉強に飽きてきたのでラジオを点けて、それを聴きながら、問題集を眺めて勉強しているつもりの状態になっていた。

 FM放送を聴いていた。定時のニュースでジョン・レノンが撃たれたと報じていた。どういうことなのかにわかに了解できなかったので、テレビのスイッチを入れて夕方のニュースが始まるのを待った。やはりジョンは殺されたらしい。

 ビートルズは知っているが、何人組なのか、誰がジョン・レノンかもよく判らない母親に向かって「ジョン・レノンが殺された」と叫んでいた。

 外出している筆者と同様ビートルズが好きな弟の帰りを待った。弟が帰ってくるなり、まずこの事を話した。既にどこかでそのことは聞いていたようだった。

 その日はジョン関係のニュースを探しては見たり聞いたりしただけだった。何故か知らないが、その日はビートルズのレコードを聴く気にならなかった。

001207

 自然数と実数との個数の比較は言ってみれば直線上に並ぶ「数」の並び方を比べることである。直線上に数がまばらに並んでいるか、緻密に並んでいるかを考えてみれば、無限の度合いの違いが簡単に想像することが出来る。

 それでは正方形の中の点の個数と直線上の点の個数とではどちらが多いか。正方形の方は面積があるから圧倒的に多そうに思える。1次元と2次元の比較だから比較にならないような気がするが、実は同じらしい

 正方形の中の点の座標を(x,y)として、直線上の0から1までの任意の点をaとすると

a=0.a1a2a3a4a5a6・・・

ここでx=0.a1a3a5・・・、y=0.a2a4a6・・・

とすれば1×1の正方形の中の点(x,y)に0から1までの数を対応させることが出来る。

 さらに正方形を埋め尽くすことが出来る曲線もあるという。線には面積がないからどんなに緻密に並べても正方形にならないと思っていたが、出来るようだ。

 小学生の頃、掛け算を憶えた時、掛け算は足し算の繰り返しという理解をした。2×3は2を3回足すことだ、と理解していた。それが今度は「長さ」×「長さ」というのが出てきて一気に理解できなくなった。「長さ」×「倍数」ならば足し算の延長で考えることが出来る。1mの2倍ならば2m。2.5倍なら2.5mといった具合に明解に判る。しかし「長さ」に「長さ」を掛けると言うことがどういうことなのか意味がさっぱり分からなかった。後にこの掛け算は「面積」という別の次元に変換する作業だと言うことを理解することになる。

 しかし、もし「長さ」に「長さ」を掛ける疑問を突き詰めていったら独自に上のような無限と次元の保存性に対する漠然とした概念を生み出していたかもしれない。

001206

 昨日の続き。それでは実数はどうか。実数は自然数と同じ個数なのか。実数というのは分母分子が整数の分数で表せる数とそうでない数の集合である。分母分子が整数の分数で表せない数とは例えば√2とか円周率π等がある。これを無理数と呼ぶ。

 この実数に自然数を対応させていく。全ての実数を分数で表すことは出来ないから小数に展開する。小数点以下が延々と続く。割り切れてしまう場合は割り切れた後「0」が延々と続く。この小数に自然数を対応させた表を作る。実数全部を表にするのは面倒だから仮に0から1迄の実数の対応表を作る。0から1迄の実数と実数全体とは何らかの工夫をしてやれば1対1で対応させることが出来る。例えばf(x)=tan(πx), 0≦x<1 とすればよい。従って0から1迄の実数と自然数との対応表が出来れば実数全体が自然数と対応することが出来ると言える。
 実数の場合、自然数と違って数と数との間にいくらでも数があるので記号を使って表を作ろう。自然数nに対応させるn番目の実数の小数点以下第m位をanmと表す。

「0. 0 0 0 ・ ・ ・ 0 ・ ・ ・」→1
「0.a21a22a23 ・ ・ ・a2m ・ ・ ・」→2
「0.a31a32a33 ・ ・ ・a3m ・ ・ ・」→3



「0.an1an2an3 ・ ・ ・anm ・ ・ ・」→n


 これで自然数との対応が全部出来たとしよう。そこで次のような数bを考える。

b=0.b11b22a33 ・ ・ ・bnn ・ ・ ・

ただしbnnはannが「0」の時は「1」、「0以外」の時は「0」とする。

 すると数bの小数点第n位bnnは上の表のどの実数の小数点第n位annと違うので、数bは上の表に「ない」ことになる。上の表で対応が出来たとしたのに対応できない数bが出てきたということは「実数と自然数とが対応出来る」とした仮定が間違っているのである。
 即ち、実数と自然数とは対応しない。

 自然数も実数も数(すう)の個数は無限個あるが、無限の具合が違うのである。このことはカントールという人が言い出したのであるが、彼がそのことを言い出すまで数学者の誰も気付かなかったのである。

 数は人間が作ったもので、実数や自然数そのものの本質は人間の脳の中だけに存在する物だろう。その中に新しい発見があるというのは何とも不思議な感じがする。思惟のみで存在という言葉が適切かどうかは別として、思惟という行為の中で新しい発見があるというのは何かそこに物があるような言い方で変であるといえば変である。結局、ある考え方の中から新しい考え方が出てきたとする方が妥当なのだろう。
 ただ、初めから何もないところから実体のない物を発見するという言い回しが何か非常に面白い。それがこの文章を書く原動力となっていること自体、精神と物理学的なエネルギーを結びつける現象として捉えることが出来る。そこがまた興味深い。

001205

 数(すう)の個数がどれだけあるかという数学には議論があるようだ。いくらでも大きな数があるからその個数なんていくらでもあって数え切れない。しかし数え切れないにしてもその「多さ加減」の差はあるだろう、ということで数の個数を比較するのである。

 数の基本は自然数だろう。指を折って数えることが出来る基本的な数である。自然発生的に出来た「数」だから自然数というのだろうか。この自然数を定義する方法もあるが、最初からこの「数」があることとしよう。「数える」ということはこの自然数を1から順番に対応させていくことになる。

 数は無限にあるのだから自然数を対応させていってもいつまでも数え終わらない。そこで自然数で対応させることが出来ると証明されれば、それは自然数と同じ個数がある「数(すう)」ということが言えるだろう。つまり「多さ加減」が同じということが言える。

 例えば自然数「1、2、3、・・・」と偶数「2、4、6、・・・」はどちらが個数が多いか。100迄の自然数というように限定すれば偶数の方が少ないに決まっているが、無限個ある個数の比較では自然数と偶数は同じになる。何故かというと偶数を2で割れば自然数全体になるので偶数に自然数を対応させられるということが判る。

 では整数と自然数とではどうか。整数は「・・・-3、-2、-1、0、1、2、3・・・」だから自然数よりも負の部分が多そうに思えるが、そうではない。例えば「0」→1、「1」→2、「-1」→3、「2」→4、「-2」→5、・・・と整数に自然数を対応させることが出来るので、整数も自然数と同じ個数である。更に有理数は分母分子が整数の分数で表すことが出来る数なので、「1/1」→1、「2/2」→2、「3/2」→3、「2/1」→4、「3/1」→4、「4/2」→5、「5/3」→6、・・・という具合に有理数も自然数に対応させることが出来る。従って有理数も自然数も同じ個数があるということになる。

001204

 先月ぐらい前までinfoseekで「名鉄」をキーワードとして検索すると以下の項目が出てきた。

名鉄 : 43%

名古屋鉄道株式会社公式WEBサイト。電車、バスの時刻表、運賃表、採用情報、会社情報など。
http://www2.odn.ne.jp/~cav33750/   2000.08.12 更新  www2.odn.ne.jp/~cav33750内の検索結果を全て表示▼

この検索結果のリンク先は筆者が運営する「遺構探訪」というサイトである。9月頃、これに関して一般の方から一通の忠告メールが届き、この登録間違いに気付いた。

 infoseekはロボット型の検索サイトなので、上記のように「名鉄」に成りすまして登録することは出来るだろう。しかしこのようなことは筆者自身はやっていない。ただ、ページの中には「名鉄」という言葉が一ヶ所だけある。

 infoseekに削除要望を2回出してようやく削除されたようだ。しかしどういう原因でこのようなことが起こったのだろうか。不思議である。

001203

 先日の朝、鞄を持ってスーツ姿で家から最寄りの駅へ歩いていたら、自動車に乗った初老の男性の声をかけられた。

「あのー、どちらまで行かれるのですか」
「はぁ、駅までですが」
「お乗りなさい。私も駅に向かう途中ですから」
「では、お言葉に甘えて」

という具合に自動車に乗り込んだ。最寄りの駅と言っても歩いて25分ほどの距離にある。朝の9時過ぎだったから普通一般の通勤時間より遅い。少し遅い朝に公共交通機関から離れた地域をスーツ姿で歩く筆者を外回りのセールスマンか何かと思ったのだろうか。

 駅までの間、この辺りの交通機関はなかなか発達してくれないというような話しをして、目的の駅で降ろして頂いた。丁寧にお礼をしてその場を去った。

 考えてみるともし通勤途中と見なすことが出来れば見知らぬ人を自分の自動車に乗せるという発想はなかなか出来ないだろう。他人から見れば通勤は日常であるはずだ。やはり、何か困っている様子でないと助ける気にはならないだろう。そうなると余程尋常でない様子で歩いていたのだろうか。最近買った革靴の革が少々硬くて歩きにくいが、それが原因とはあまり思えない。歩いていた時刻、鞄、スーツを総合的に見てて筆者の状態が非日常であると初老の男性は判断したのだろう。

 件の男性がどう思っていたかは永久に筆者には分からないが、親切行為であったことは間違いない。このお陰で数日にわたっていい気分にさせてくれるのだから、親切は大切な行為であることを改めて思った。

001202

 今、猛烈に所有してみたい物がある。ある腕時計である。現在常用している腕時計はSEIKO*1Alpinist*2と言う名の自動巻の時計で、数年前に衝動的に買った時計である。20気圧防水で25石と書いてある。しかしこの時計*3は直ぐ止まる。針の動いている時間*4が極端に短い。寝ている間に針が止まってしまっている。少なくとも朝起きて時刻を確かめようとして、腕時計を見たら朝日が出ているのに針は4時頃を指し示しているようでは時計として情けない。この時計は衝動的に買っただけあって買った当初に直ぐ飽きてしまったので、ずっと使っていなかった。
 数カ月前まで使っていたクォーツ式の腕時計が電池切れで止まってしまったので、この自動巻時計を一時的に使用しだして現在に至っている。

 それまで使っていた時計はTAG HEURE*5の3000 professionalというモデルで、これは買うのに相当勇気が必要だった。それぐらい筆者にとって高価な買い物であった。これは電池を必要とするクォーツなので定期的に電池の交換が必要である。この時計の電池は大体1年ぐらいしか保たない。電池交換後の防水性能を保証するためにメーカーで交換するので、日にちと費用がかかった。一時的のつもりであったが、電池交換が面倒になってきたので何カ月も直ぐ止まる自動巻腕時計を使っている。

 それにしても毎日腕時計の時刻を合わせるのは面倒過ぎる。電池の交換より面倒である。そのお陰で時計の毎日の時刻の誤差が小さくなっているのだが、やはり面倒である。

 ある腕時計が欲しい動機はこの自動巻の腕時計が直ぐ止まるからではない。今使っている時計が直ぐ飽きる意匠だからである。飽きの来る時間はやはり値段に比例する。時間と費用をかけたデザインはなかなか飽きが来ない。無意識のうちに元を取ろうとする意識が働いているわけではない。何が違うのかはっきり言えないのだが、違いがにじみ出てくるのである。安物は細部に手を抜いているが、高価な物は細部にも気を使っている。ちらっと見るだけではその細部に気付くことがないが、無意識のうちに細部を認識しているのではないかと思う。神々は細部に宿るのである。

 今まで使っていたTAG HEUREが飽きたわけでもない。ただ、気になるのは時計の文字盤に使われている夜行塗料が変色したり、針に錆のような物が浮き出ている。神々が少し逃げ出している状態なのである。これはメーカーで修理をして貰えるのかどうか判らない。

 こんな時に以前から目を付けていたBell&Rossのヴィンテージコレクション*6金属製の時計バンドモデル*7が発売されたことをBell & Ross国内公式サイト*8で知った。今までは革製バンドのモデル*9しかなかった。水の中でもどこでもはめて行ける金属バンドの腕時計が大好きなので、一気に物欲度数が上がってしまった。

 目標はVintage 126 Beige*9 メタルストラップ*7。文字盤は非常に簡素に出来上がっている。自動巻で20気圧防水。クロノグラフ機能を持っている。中央の秒針はクロノグラフ用で、通常の時刻を示すための秒針は9時の位置にある副文字盤にある。3時の位置には30分計の副文字盤が配置されている。5時の位置には小さな円形の日付窓が開いている。文字盤全体の色はベージュで文字や目盛りは黒色である。

 定価355,000円(税別)。毎月1000円ずつ今から貯金しても買えるのは30年後である。金利手数料0円で月々1000円で支払うとしても30年近くかかる。どうやって購入するかが問題である。



*1 セイコー株式会社
*2 alpinist.jpg
*3 Seiko Alpinist Review
*4 高級腕時計
*5 TAG Heuer
*6 TAGHEUERとBell&Ross
*7 Bell&Ross公式サイト 126be_1.jpg
*8 Bell&Ross公式サイト
*9 Bell&Ross公式サイト 126BE

001201

 晴れた日に輝く太陽*1の動きには何ら変わったところはない。曇りの時に変な動きをする、という意味ではない。別段、太陽の動き方を不思議に思うことはないと言うことである。毎日、太陽は朝は東から昇って夕には西に沈む。日によって違うのは日の出の場所と太陽が空を通る道筋と日の入りの場所ぐらいである。1日ぐらいではその変化はあまり判らない。季節が変わると日が短くなったとか太陽が高くなった、と思うぐらいである。

 太陽の一日の動き方は空を円弧上に動いていくだけなので、それ程変わっているとは言えない。空に輝く全ての天体は太陽と同じように円弧状に動くので、太陽の動きは珍しくもなんともない。しかし日々の動きを観察していくと太陽は意外な動き方をしていることが判る。

 定時刻の空に浮かぶ太陽の位置を観察してみる。定時刻の観察とは毎日昼の12時なら12時丁度になった時の太陽の位置を毎日一年間記録するのである。毎日は大変だから毎週でもいい。とにかく同じ時刻、同じ場所から見た太陽の位置を記録していく。記録の仕方は色々あるだろう。南向きのガラス窓の前に自分が観測する場所の目印を付けて、12時になった時の太陽の位置をガラスにマジックインキ*2で印を付ける。観測するときの目の位置を固定するために顎を乗せて固定する台を据え付けた方が良いかもしれない。
 カメラを固定して記録する方法もある。撮影した後、合成すれば太陽の定時刻の位置の変化が判る。デジタルカメラ*3ならフィルムが劣化しないのでいいかもしれない。

 観察はいつからやってもよいが、もうすぐ冬至なので冬至*4からやることにしてみる。冬至の日は太陽が最も低くなる日だから丁度いいだろう。半年後の夏至*5には太陽が最も高くなるので、毎日太陽の位置が上にあがって行く様子が記録できて楽しいだろう。

 さて、これを根気よく一年間続けられたとして太陽の位置がどのように変化するか想像できるだろうか。おそらく殆どの人は一年かけて冬至と夏至との間を真っ直ぐ上下に往復するだけと考えるに違いない。少し読む人がいても円周状になると考えるぐらいだろう。しかしこれは全く違うのである。

 昼の12時に太陽は真南には来ない。南中*6と呼ばれる太陽が真南に来る時は11時40分前後である。太陽は12時には少し西に移動しているが、このことは太陽の定時刻観察には影響しない。
 12月22日の12時を最初の太陽の位置として記録する。上に書いたように太陽の位置は真南ではないが、ほぼ南である。この時太陽の高度は東京で31°ぐらいである。その1週間後の12月29日には12時の太陽の位置は0.5°東にずれる。高度は殆ど変わらず31°である。それから一日毎に太陽が高くなり、その高度が40°になるのは2月の中旬頃であるが、この時、12時の太陽の位置は最初の冬至位置から6°東にずれている。
 この日を境にして今度は西に戻り出す。そして4月の中旬には冬至の日と同じ位置に戻る。ただし夏至にだんだん近づいているので高度は63°ぐらいになっている。そしてそのまま西にずれていく。5月下旬には1°ぐらい西にずれている。そしてまた東に戻り出して、6月21日頃の夏至になると冬至の位置に戻ってくる。ただし高度は最高の77°になっている。ここまでの太陽の位置の軌跡を空に描くと「S」字の裏返しになっている。
 夏至を過ぎるとそのまま、東にまたずれ出し8月初めに1°ぐらいずれたところでまた西に戻って8月末頃に冬至の位置になる。この時、太陽の高度は63°で、4月中旬と同じ位置になる。そしてまたそのまま西にずれて11月初めに折り返して冬至の日に元に戻る。夏至から冬至までの軌跡は最初の半年の逆で「S」字である。

 つまり太陽の定時刻の位置を一年かけてつなぐと「8」の字になる。この「8」の字は下の部分が大きい「8」の字である。なぜ「8」になるのかよく判らないが、にわかには信じ難い。太陽というのは絶対的な存在のように漠然と考えてしまっているので、そんな太陽が「8」に動くというのはかなり違和感を持ってしまう。
 しかも「8」の字の交点は春分でも秋分*7でもない中途半端な4月と8月である。一体この日はどんな意味を持っているのだろう。

 下の部分が大きい「8」の字は日本で観測した場合であって、赤道ではおそらく綺麗な「8」が頭の真上に描かれるだろう。そして交点は秋分と春分の日になると思われる。北極圏や南極圏*8で観測するとおそらく「8」の字にはならず水平線に接する丸が描かれると思われる。

 20年ほど前、名前を忘れたが、ある写真家の定時刻の太陽観察写真を見てこの太陽の不思議な動きを知った。自分もやってみたいと思っていたが、一年もかかるので直ぐやる気が失せて現在に至っている。理科年表*9を使ってグラフを描けば太陽の「8」の字が一年もかけなくても出てくる。グラフが出来上がっただけでも結構感動するので、一年かけて記録を取り続けると物凄い感動が得られるのかもしれない。



*1 「AstroArts - アストロアーツ
*2 マジックインキ
*3 デジタルカメラ
*4 冬至の太陽の高度
*5 6月21日 夏至の日の太陽
*6 南中高度について
*7 1996 - 2010年の春分・秋分の日付
*8 Tom's Wonder Forest (8) 若い木 <昼間の大地>
*9 丸善株式会社 出版事業部



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