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0108雑記草


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010801

 あるしきたりが本当に正しいかどうかは、それが合理的かどうかを考えることによって判る場合がある。「こういうものなのだ」と教えられて、訳も分からずそれに従っているようなことでも、よくよく考えてみれば合理的な法則に従って決められていることが殆どである。どう考えても根拠が曖昧となっているものは、誰かが都合のいいように作った場合が多い。

 印鑑を押す時に自筆の署名の後ろの方に印影が重なるように押すものだ、と幼少の時に教えられ大抵はそれに従って押している。人間に限らず、法人印や代表者印でもよく見ると殆ど法人名に印影を重ねて押してある。逆にそういうことをしていない法人に対しては「大丈夫かなぁ」と思ってしまう。これは自然人*1に対しても同じである。

 署名と印影を重ねるようにするのだが、○に印と書いてあるところは大抵、署名欄の後ろの方に印刷してある。「○に印」を無視して印鑑を押す場合もあるが、出来るだけ漢字の間隔を広く取って丁度「○に印」に自分の名前が上手くかかるように書く。それでも上手くいかない場合は後藤吉孝*2の「孝」の字の最後の画を右に引っ張って「○に印」にかかるようにする。縦書きの場合はもう「○に印」を無視するしかない。

 それにしてもこの風習は何のためだろうか。文書偽造防止のためかと、一瞬思ったが別に重ねて印鑑を押しても偽造は簡単に出来そうである。ただ、この方法であれば署名は墨やインクで押印は朱肉なので署名、押印の順番が保存される。

 印鑑に似たものに花押*3がある。これは署名には重ねない。これはどちらも墨で書くからだろう。



*1 便利ツール[国語辞典]
*2 著者
*3 日本の伝統 ☆花押デザイン☆

010802

 また耳袋*1鼻血*2をとめる妙法の事、と言う題の文章がある。

「鼻血出る人左より出れば己(おのれ)の左りの睾丸(きんたま)を握り、右なれば右の睾丸を握り、両様なれば両睾を握れば感通して立所(たちどころ)に止(とまる)よし。呪(まじな)ふ人女なれば乳を握りて呪(まじなう)に妙なるよし」

 これは無茶苦茶な呪いである。純粋に面白可笑しく楽しむために誰かが作った話であろう。先日、しきたりが正しいかどうか*3を判断するには合理性を考えるとよいと書いたが、これはそんなのを超越している。

 江戸時代でも睾丸という器官の役目は十分判っていたであろう。興奮によって鼻血が出る*4こともあるので、興奮の原因と睾丸とが直結していると考えられないこともない。しかし女性の場合、睾丸がないので乳房を握るというのは対称性に着目しただけであろう。因果関係は全く考えられない。女児の場合は乳房も睾丸もないのでどうすればいいのか。

 この呪いを信じて実行している姿を想像すると面白い。江戸時代の庶民の姿はどうしてもテレビジョンドラマの時代劇に登場する人たちしか想像できないが、ちょんまげ姿で睾丸を握ったり、日本髪*5で乳房を握ったりしている姿は滑稽そのもである。



*1 屁ひり虫奇説
*2 常識のウソ
*3 判の押し方
*4 子供が風邪をひいて熱をだし、その上鼻血が頻繁に出ます。鼻血の原因というのはどういうものがあるんでしょうか?(3歳)
*5 日本髪

010803

 1970年代には次のような名前の喫茶店やスナックが沢山あったように思うが、最近はこのような名前の店が新しく開店することは殆どなくなった様な気がする。何か原因があるのだろう。

 「来夢来人*1」ライムライトと読む。ライムはみかんのライムではなく石灰の意味。英単語の綴りはどちらもlimeで同じである。水素と酸素の混合ガスやアセチレンを燃やし、その炎に石灰を入れると白色の強い光*2を発する。これを舞台照明などに用いた。これが転じて脚光を浴びるという意味にもなっている。

 「待夢*3」タイムと読む。time時間に漢字を当てたもの。夢を待つ。喫茶店やスナックにはピッタリな名前である。

 「歩絵夢*4」ポエムと読む。poem詩に漢字を当てたもの。何となく喫茶店向き。

 「多恋人*5」タレントと読む。talentに漢字を当てたもの。恋多き人。風俗店、スナック向けか。

 「樹庭夢*6」ジュテームと読む。フランス語のJe t'aimeに漢字を当てたもの。何と解すればいいのか。

 「Do恋処*7」どっこいしょと読む。DoCoMo*8に少し似ている。

 web上にはこんな名前のサイトがまだまだ沢山あった。名前を付けるというのは本当に難しい。



*1 Google 検索: 来夢来人
*2 USHIO LIGHT EDGE 15
*3 Google 検索: 待夢
*4 Google 検索: 歩絵夢
*5 Google 検索: 多恋人
*6 Google 検索: 樹庭夢
*7 馬瀬川下流遊漁証取扱所
*8 DoCoMo(2)

010804

 先日*1に妻が出産した病院では医師が母親になった人に花束を贈る。この花束の意味は出産のお祝い、母子健康の祈念、次回妊娠出産時の再来院の期待など様々なものがあるだろう。私立病院なので元を辿れば直接患者がこの花の費用を出している事になっているのかもしれない。

 通常な経過であれば一週間ほどで退院をする。母親になった人の中にはこの贈られた花束を 病室に置いていく人がいるらしい。部屋の後を片付ける看護婦が忘れたものと思い、その母親に連絡を取ると「要らないから処分してくれ」と言う人がちょくちょくいるらしい。

 こういう思慮のない人が母親になっているかと思うと本当にこの国*2は大丈夫かと心配になってくる。人から物を貰ってそれが要らないものだからその人の目の前で捨てると言う行為が、どうして平気で出来るのだろう。贈る側はよかれと思ってそのものを贈る場合が殆どである。そうではない場合は、その相手と付き合っている間に判ってくる。その場合は適当にあしらっても問題は出ないだろう。そのように扱われるのは元々相手に責任があったのである。上記の母親達はこの病院に対してそう結論付けたかも知れない。それにしてもこの病院で無事に子供が産めたのだから、その事実に対しては感謝すべきである。従ってこのような行動は慎まなければならない。

 よかれと思って贈るのだが、贈られた物が自分にとって不必要な物である場合もある。物だけではなく行為でも同じである。しかしそんな相手の気持ちを考えないで、無下にあしらうのは 相手に対して配慮が欠け過ぎている。如何にも自己中心的で幼稚である。

 少なくとも自分の子供を取りあげて貰った人に対する行為ではない。医療を施す人も生活しなければならないので、出産に限らず医療行為には金銭の授受が発生する。これは単なる経済行為ではなくそこには人の命が関わってくるのである。単にお金を払えば何でもやりますよ、ではないのである。これは医療を施す側も受ける側も認識すべきで、当然、認識されているものだと思っていた。しかしこれはどうもそうではなくなりつつあるようである。

 何故そうなってきたのか。余りにも複雑すぎて判らない。ただ言えることは子供の教育*3が上手くいっていないが原因の一つだろう。子供の教育を学校だけに押しつけすぎてきた。子供は人類の共通共有の財産であることを無視しすぎた。市井の人が他人の子供を自分の子供のように教育する風習がなくなり過ぎたのである。これによって他人との関連性を考えない幼稚な簡単な思考だけに頼る利己的な人が増え過ぎた。

 今更、家庭教育を見直すといっても無理である。子供の頃に教育されていないので、自分の子供を教育できない人がどんどん増えているからである。敗戦後、物質的な豊かさの追求最優先で突き進んできた。その前提はまずは物質的に豊かにならないと豊かな精神は育たないと考えられたのである。敗戦後の貧困な状態を経験すればだれでもそう思うに違いない。それが糧となり国民全体が一所懸命に頑張った。しかし精神的な豊かさはそれに全く追従してこなかった。物質的に豊かになるためにはどうすればよいかばかり教育してきた事の代償なのかもしれない。

 もうそろそろ物質的に「足ることを知る」べきではないだろうか。



*1 新しい家族
*2 電子政府の総合窓口
*3 文部科学省子どもホームページ

010805

 ガロア虫*1というのがいるらしい。事典で偶然見つけた。あまり詳しく書いてなかったので、早速、web上の検索で調べてみる。「ガロア虫*2」という語句は現在web上には存在していないようだ。ここに「ガロア虫 」と書くことによって世界で唯一「ガロア虫 」という言葉を含むwebページが出現した。ただし「ガロアムシ*3」なら沢山ある。

 ガロアで思い浮かべるのは数学者のガロアだろう。ガロア(1811-1832)*4はフランスで生まれた。20歳で決闘によって死んでいる。この決闘はある女性を巡って行われた*5とも、自由主義者であったために王党派の陰謀で決闘を仕組まれたとも言われている。ガロアの功績はガロア理論*6の構築である。n次方程式が代数的に解かれるための必要十分条件を求めた。

 ガロア虫*7という名は日本で初めてこの虫を発見したフランス人ガロア*8に因んで付けられた。数学者のガロアとは全く関係がない。全くとは言い過ぎかも知れない。もしかしたら遠い親戚かも知れない。 よく見ると数学者のガロアはGaloisだが、虫の発見者は学名からするとGalloisだから物凄く遠い親戚の可能性もないこともない。

 関係ないが、ガロアの肖像画*9を見るといつも思い出すのはこの人*10である。



*1 ガロアムシ目Notopteraの発生学的研究
*2 Google 検索: ガロア虫
*3 Google 検索: ガロアムシ
*4 Evariste Galois
*5 エヴァリエスト・ガロア (Evarieste Galois)
*6 Galois の基本定理
*7 幕臣武蔵孫右衛門自製昆虫標本
*8 insect fauna of Fukushima Pre.
*9 Galois Portraits
*10 森進一公式ホームページ

010806

 先日、物理学などで用いられる定数を表す記号の由来*1について書いた。読者の方から、自然対数の底「e」はEulerオイラーの「E」ではないかと言う指摘を頂いた。

 記事では、自然対数の底「e」はexponential、と書いたが、これは特に調べた訳でもなく、何となく筆者がこんなものだろうと思って書いてしまったのである。

 調べてみると色々面白い記述*2があった。自然対数の底をロジャー・コーツ*3は「M」で表していたらしい。なぜ「M」としたのかよく分からない。オイラーはこれを「e」と表した。ニュートン*4が最初に一般的な指数をazという形で記述したらしい。この表記をオイラーも採用していた。ここからはこのページの著者の考え*5であるが、「a」によく似た母音の「e」を自然対数の底の数値として代表させたのではないか、というのである。因みに円周率をπと最初に表したのはウィリアム・ジョーンズ*6だが、オイラーもこれを採用*7したので、これが一般的になったようだ。

 このページ*8では「e」はオイラーの「E」が由来であると断言している。

 このページ*9ではexponetialの「e」またはEulerの「e」としている。

 これらを考え合わせると自然対数の底を「e」としたのはオイラーのような気がしてくる。いつからこの記号を使い出したかというとこのページ*10では1731年であり、このページ*11では1727年、そしてこのページ*12では1713年になっている。オイラーが生まれたのは1707年だから1713年というのはちょっと早すぎるような気がする。もしかしたら1713年は1731年の間違いかも知れない。

 結局「e」の由来はよく分からない。オイラー自身が自分の名前の頭文字ということで使い出したのかも知れないし、たまたまオイラーは「e」を持ち出しただけで後生の人々がオイラーの業績を称えて由来をEulerの「e」と言うようになったかも知れない。ただし、オイラー数*13という言葉は別の意味で使われる。



*1 プランク定数
*2 Leonhard Euler (1707 - 1783)
*3 Cotes
*4 Newton
*5 Leonhard Euler (1707 - 1783)
*6 Jones
*7 Pi history
*8 ■e(自然対数)
*9 Euler's number e
*10 Leonhard Euler (1707 - 1783)
*11 Euler
*12 数学者クイズ
*13 数値表

010807

 デカルト*1著「方法序説*2」の本来の題名は日本語に訳せば「かれの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の序説、なおこの方法の試みなる屈折光学、気象学および幾何学」だそうである。無茶苦茶長い題名で、しかも何か中途半端な感じがする日本語である。原題でもこんな感じなのだろうか。原題は「Discours de la methode pour bien conduire sa raison et chercher la verite dans les sciences, plus la dioptrique, les meteores et la geometrie, qui sont des essais de cette methode*3」である。

 文章の題名に初めて読点が入ったのは田中康夫*4の「なんとなく、クリスタル*5」と聞いていた。少し違うが「読点付き」は昔からあったことになる。

 読点付きの題名で思い出すは、今ならやはり「モーニング娘。*6」だろう。こちらは句点になる。よく見るとローマ字表記でも「。」である。

 読点付きの人もいる。藤岡弘*7氏は名刺や著書には「藤岡 弘、」と書いているそうだ。「我は未だ未完成なり」という意味らしい。

 どちらが先なのだろうか。



*1 Descartes
*2 Rene Descartes "Discourse on the Method of..." Japanese
*3 DISCOURS DE LA METHODE POUR BIEN CONDUIRE SA RAISON, ET CHERCHER LA VERITE DANS LES SCIENCES
*4 長野県知事 田中康夫と申します
*5 Amazon.co.jp: 本のデータ: なんとなく、クリスタル
*6 **********モーニング娘。************
*7 藤岡弘インタビュー

010808

 我が家の便所に貼ってある世界地図*1を見ていたらグリーンランドの南端に「植村山」と名付けられた山があることに気付いた。高さは2540m。この「植村」は冒険家の植村直己*2の植村である。

 日本、中国や韓国以外の海外で山、河や海の名前が漢字で書いてあると何となく変な感じがする。植村山は元々日本人の名前に因むのだから納得できるが、山や河などの地形の名前を現地言語ではなく、日本語に訳して漢字で表記することがある。太平洋や大西洋など大洋はいろんな国々が面しているので、それぞれの言語による固有の名前があるのは仕方がないが、そうでない場合に勝手に日本語に訳して漢字で表記するのは違和感がある。日本語には外国語の音を片仮名に置き換えて表記するという便利な機能があるのに、何故かそれを使う時と使わない時がある。

 オーストラリアの大鑽井盆地*3を知った時もどうして漢字なのだろうと思った。現在、オーストラリアの公用語は英語なので「大鑽井盆地」は英語で「Great Artesian Basin」と呼ばれる。artesianは一般名詞で「鑽井(自噴する掘り抜き井戸)*4」のことである。鑽井が出来る原因となっている大鑽井盆地の隣の「グレートディバイディング*5山脈」は訳して「大分水嶺山脈」と表記されたりする。しかし大鑽井盆地は訳さずに「グレートアルティジアン」と片仮名表記されることはない。この差は何なのだろう。

 死海*6も何故か訳してある。現地では「塩の海」と呼んでいるらしい。ところがアメリカにある「グレートソルト湖*7」は「大塩湖」と訳して表記されない。ニュージーランドの「North Island*8」と「South Island*8」は必ず「北島」「南島」と漢字で表記される。紅海、地中海*9も漢字でしか書かない。これらは色々な言語の国々にまたがっているので仕方がないかも知れない。カスピ海*10は「裏海」とも言うし、エーゲ海*11は「多島海」と言う。

 この記事を書いていくうちに初めて知ったのだが、「地中海*12」というのはヨーロッパ大陸とアフリカ大陸に挟まれた海だけを指すだけではなく、読んで字の如く陸地に囲まれた海の一般名称である。従ってカリブ海、チモール海、紅海、北極海などを総称して地中海と言うらしい。



*1 六大州
*2 Uemura Naomi Memorial Museum
*3 大鑚井盆地
*4 被圧地下水
*5 オーストラリア大陸
*6 イスラエル大使館 東京 | オンラインマガジン | 連載物 | 観光
*7 ユタの自然は不思議の連続
*8 島の名前
*9 クラブメッド
*10 ディフェンス・ゼミ カスピ海周辺諸国のエネルギー資源を巡る最近の動向について
*11 日本エーゲ海学会
*12 Club Med

010809

 自分の子供の名前を言う時は呼び捨てにしている。娘が保育園で保母さんに習ったのか、娘を呼び捨てで呼ぶと「ヨビスケは駄目だよ」という。「ヨビスケ」じゃなく「ヨビステ」だと教えてもなかなか直らない。「呼び助」を「名無しの権兵衛」の仲間とでも思っているのかだろうか。面白がってわざと言っているのかも知れない。

 「ヨビスケ」と聞くと「ワビスケ」を思い出す。「ワビスケ」と言えば椿の種類の「侘助*1」とドカベン*2に登場するスイッチピッチャーの「わびすけ」である。

 更に「ワビスケ」から連想するのはNabisco*3である。そういえばNabiscoのOreo*4の裏の意味はこれ*5である。



*1 名古屋城の椿展
*2 増田町まんが美術館:常設展示作品/水島新司
*3 Nabisco is new part of Kraft Foods Inc.
*4 Oreo - Great free Shockwave Games!
*5 便利ツール[英和辞典]:oreo

010810

 ある機会に恵まれて本物の金の延べ板*1に自分の手で直接触ることが出来た。前にも書いたが金は見た目よりかなり重い*2。大きさは手の平にすっぽり隠れてしまう大きさなのだが、この大きさで1kgもあるのかと何度でも持ち直して考えてしまった。

 色も本当の金色というのはこういう色かと思った。色は地金の表面の状態で見え方は変化するので一概にこれこそが金の色だとは言えないが、メッキやペンキ色とはやっぱり違うなぁと思ってしまう。ある程度厚い金メッキの場合は金塊の色との区別は出来ないはずだが、鉄や銅にメッキをしてある*3と全体は軽いので色も何となく違って見えてくるかも知れない。

 この金の延べ板*1の製造はEngelhard*4という会社が製造した物である。日本には三菱マテリアル*5田中貴金属工業*6石福金属*7徳力本店*8などが製造している。世界ではこれらの会社*9が作っている。

 取引に使われる延べ板はどれも純度99.99%以上*10なので、どこの製造業者の金でも品質には違いがなく、地金に刻印してある文字や商標だけが違うだけである。とは言っても、どうせ触るなら自分が知っている製造業者の金がいい、と思ってしまうのは何故だろうか。



*1 gold.jpg
*2 金の総量
*3 Q:オリンピックの金メダルにはどれくらいの金が使われているのですか?
*4 Engelhard Corporation Home
*5 三菱ゴールドパーク
*6 田中貴金属
*7 貴金属の総合メーカー、石福金属興業株式会社 です。
*8 徳力本店
*9 貴金属受渡供用品
*10 取引要領

010811

 四角号碼*1という漢字の索引法*2がある。「しかくごうま」と読む。音だけ聞くと「刺客強魔」と言う漢字が浮かんできて、なんかとても悪そうな奴のような気がしてくる。

 四角号碼*3の「四角」は漢字の四つの角のことで、「号碼」は中国語で番号という意味らしい。王雲五という言語学者が1925年頃考案したらしい。漢字は大抵四角い形をしている。その四角い漢字の左上、右上、左下、右下の四つの角の部分の形を十種類(頭、横、垂、点、叉、挿、方、角、八、小)に分類してそれぞれに0から9までの数字を割り振り、四桁の数で漢字一つ一つに番号を付けて索引にしたのである。

 例えば「碼」という字は左上が石偏の第一画の横棒があるから「ー(横:よこ)」で「1」、右上は馬の横棒があるからこれも「1」、左下は石偏の「口:しかく」があるから「口(方)」は「6」、右下は馬の縦線があるから「亅(垂:たて)」で「2」だから、「碼」の番号は「1162」となる。

 「碼」であれば部首は「石偏」だから四角号碼を使わなくてもすぐ漢和辞典が引けるが、部首も読み方も総画もよく分からない「靠」「龠」このような字を探す時には便利かも知れない。

 この方法で分類できる漢字の数は、四つの角に0から9までの数字を付ける訳だから最大でも10×10×10×10で一万字しか分類できない。大漢和辞典では五万字*4もあるのだから番号が足りない。そこで「符号」という分類をもう一つ加えて5桁にしている。どういう時に符号を使うかというと、字が違うのに4桁の番号が一致してしまった場合に右下角の上の一番近いところにある角の形の番号を付け加える。「碼」の場合、馬の右中程に「┐(角:かど)」がある。これは「7」なので番号は11627となる。実際に*5*6*7が「1162」となり重なっている。更に砺と礪の符号も碼の「7」と同様に「┐」があるため11627になっている。

 漢字に固有番号を付けるのが目的ではなく辞書を引く際の索引として使う訳だから少々番号が重なっても問題は出ないのである。

 曲線が含まれた漢字、例えばこんな漢字*8はどうなるのだろうか。四角号碼は対応できているのだろうか。大漢和辞典が手許にないので確認できない。

 それにしても漢字の部首を無視して筆の運びや形だけで漢字を分類するという発想は漢字を使う国の人にとってはかなり難しいのではないだろうか。一体何がヒントになったのだろうか。



*1 あまつぶ981124
*2 A Chinese-English Dictionary"
*3 CJK-English Dictionary: Table of Indexes
*4 漢字ポスター
*5 CJK-English Dictionary
*6 CJK-English Dictionary
*7 CJK-English Dictionary
*8 曲線漢字

010812

 *1と烏賊とどちらが好きかと問われれば、見るにしても食べるにしても蛸の方が好きであると答える。何故そうなのか。食べるのはどちらも大好きであるが、敢えてどちらがいいのかと言われれば、刺身でもスルメでも蛸の方である。烏賊には骨というか筋みたいのがあるからだろうか。烏賊の吸盤にはギザギザがあるが、蛸にはそれがないのでいいのだろうか。とにかく蛸か烏賊かと問われれば、蛸と答える。

 *2というと直ぐ頭に描かれる映像はマダコ*3ミズダコ*4である。蛸の漫画*5はこれらが元になっている。

 これら丸い胴の下に八本の足が生えているのが標準の蛸であるなら、これから挙げる蛸は異形(いぎょう)と言われるかもしれない。やはり見慣れないものはそれだけで価値がある。価値があると思えればどんなものか見たくなるのは人情であろう。

 アオイガイとタコブネ*6。この二種類は殆ど同じだが、厳密に言うと種類が違うらしい。アオイガイはカイダコという別名があり、タコブネはフネダコという別名があるようだ。タコなのに貝殻を持つ。しかも貝殻があるのは雌だけで卵から生まれた時は貝殻を持っていない*7。雄は貝殻を持っていないだけではなく雌に比べて非常に小さい*8。ヒトの雄である筆者にとって生殖だけが唯一の機能となって極端に小さくなっている*9というのは何となく寂しいものである。

 コウモリダコ*10。胴の上の方に耳のような物が付いている。それで蝙蝠のように見えるからコウモリダコという名前になったのだろうか。英語ではvampire squid*11というらしい。タコだけどsquidイカ*12になっている。コウモリダコはもしかしたらvampire吸血コウモリの訳かも知れない。これも異形のタコである。

 メンダコ*13。普通のタコの足を短くして胴を押しつぶしたような形をしている。漢字で書けば面蛸だから、まさに異形のタコ*14である。



*1 蛸研究会のホームページ
*2 タコの種類
*3 生物解説:マダコ
*4 生物解説:ミズダコ
*5 吸出し青膏(一名たこの吸い出し) 町田製薬
*6 アオイガイとタコブネ
*7 アオイガイ卵と殻補修
*8 カイダコの謎
*9 チョウチンアンコウ
*10 Coleoidea Bather, 1888
*11 Animals of the Bathypelagic
*12 いか
*13 深海の底に生きる生物たち
*14 会いに行こう!ゆかいな仲間たち

010813

 「美味しいものがお好きな皆様に」という表現に出会った。美味しいと思うからその食べ物が好きになるのであって万人に共通な「美味しい物」というものは存在するのだろうか。味の感覚*1の種類に「甘い」「苦い」「酸っぱい」「塩辛い」があって、更にそのどれにも入らない「うま味*2」という味が知られている。グルタミン酸ナトリウム*3などの味である。

 このうまい、美味しいと感じる味覚である「うま味」と食べた時に「美味しい」と感じることは基本的に全く違うことではないだろうか。前者はそれが甘いとか苦いとかと感じるのと同様に「うま味」を感じているのだが、後者はただその味が好きだから「美味しい」と思うのである。酸っぱいだけでも美味しい旨いと思う人はいくらでもいるのである。「美味しいものが好き」というのは「そんなのは当たり前じゃないか」と反論を誘発する表現である。

 味覚は動物が捕食する時、それがその動物にとって害があるかどうかを判断するために備わった機能であろう。うちで飼っている亀もはっきりした味覚があるようだ。必ず先に食べる餌*4があることを以前書いた。これらの餌以外にキャベツを与える*5ことがあった。これらに比べてキャベツはそれ程好きではないようである。最近、キャベツがなかったのでレタスを与えてみた。キャベツよりもよく食べることが判った。人間でも千切りしたレタスとキャベツとの区別が出来ない人がまれにいる。亀の分際でなかなか繊細な味覚を持っている。



*1 舌と味覚
*2 解き明かされる味覚の情報伝達
*3 日本うま味調味料協会-うま味辞典
*4 亀のグルメ
*5 無事だった亀

010814

 最近、台所用洗剤の広告でスポンジに洗剤原液を含ませておくと「スポンジの除菌*1」が出来ます、と言うようなことが書いてある。これは塩や胡椒のびんの穴を少し大きくして、中身の消費量を増やす*2意図と同じ様にしか感じられない。

 スポンジの除菌という行為はそもそも必要なのだろうか。それに洗剤でしか除菌出来ないのだろうか。大体、除菌とはどういう意味*3があるのか。

 「菌」とは微生物のことらしい。微生物とは顕微鏡でないと見ることが出来ない生物をいう。茸やかびも菌類なので、目に見えないくらい小さければこれらもここでいう「菌」に含まれるかも知れない。普通はアメーバやゾウリムシのような生物を想像する。ばい菌を想像する時も大抵はこのようなものを思い浮かべてしまう。

 食中毒の防止のために食器や台所用品を洗うことは昔からやっている。スポンジに付着した菌をわざわざ洗剤で除去した方がいいという発想はO-157*4の出現による恐怖からだろうか。食中毒の発症は菌の数とその人の体力によるのだろう。菌が増えれば、菌が出す毒素は増える。体力がなければ少ない毒素で中毒を起こす。ところが一般家庭で大腸菌などの数を零にすることは不可能である。しかし少しでも菌の数を減らせば食中毒になる可能性はそれだけ低くなるのでスポンジの除菌は意味があることになるのだろうか。それよりも日頃の生活習慣を正して体力をつけておいた方が様々な意味において効果的である。

 そもそも除菌とはどういう作用なのだろうか。スポンジに付着している菌を殺すことなのか、菌をスポンジから離脱させることなのか、その両方なのか。スポンジに付着している菌を殺すのならば「殺菌*5」というような言葉でもよさそうだが、わざわざ「除菌」としている。「除」というくらいだから菌をスポンジの組織表面から洗剤の界面活性の効果*6で離脱させるのだろうか。それならばわざわざ原液を含ませておく必要はなく、洗剤を使う度に菌は流れ落ちているだろう。

 どうも「除菌」という言葉だけが頭に入って、その字面から勝手にその効果を想像してしまっている。除菌とはどのようなことを指し示す言葉なのか十分理解しないと、いたずらに環境破壊を促進*7するばかりである。  



*1 「除菌もできる」は違法広告
*2 最近の合成洗剤―タブレット・除菌・弱酸性―をめぐる問題と99%純石けん問題(太陽油脂株式会社)
*3 抗菌の定義
*4 O-157を知ろう
*5 (株)ヒロテック <殺菌、滅菌、抗菌について>
*6 界面活性剤とは
*7 水質汚濁とは

010815

 劣化ウラン弾*1という弾丸がある。対戦車用に開発された弾である。放射性物質を使うことが開発の着眼点ではない。

 鋼鉄の厚い装甲板で覆われた戦車*2を破壊するためには、弾が装甲板を貫通しなければならない。貫通させる方法として大きく分けて二つの方法がある。一つは化学的なエネルギーによって弾を貫通させる方法、あと一つは運動エネルギーによって弾を貫通させる方法である。

 化学的なエネルギーを用いるのは爆薬を使って装甲板を貫く。HEAT弾*3と呼ばれる弾はモンロー効果*4を利用して装甲板を溶かしながら進入し爆風と溶融した金属を戦車内に飛び散らせる。HESH弾*5と呼ばれる弾は装甲板に命中すると弾頭がつぶれて信管により弾の内部の爆薬が爆発する。その衝撃波によって装甲板の内側が破砕し戦車内でその破片が飛び散る。

 運動エネルギーによって装甲板を貫くには弾の速度が速いほど、その重さが重いほどよい。重くするには出来るだけ密度の高い材料を使う。従来はタングステンや鋼を用いていた。運動エネルギーを用いた弾には爆薬を含まないAP*6実体弾、貫通後爆発するようになっているAP榴(りゅう)弾*7APDS弾*8などがある。

 劣化ウラン弾はウランの密度の高さを利用した運動エネルギー弾である。劣化ウラン*9は減損ウランとも呼ばれ核燃料として有用な同位体元素であるウラン235の含有量が天然のウランよりも少ない放射性廃棄物である。ウランの密度は19050kg/m3でタングステンの19250kg/m3に近い。

 ウラン*10の原子量は238.03、タングステンの原子量は183.85である。時々、原子量が大きいと元素の重さも重いと思っている人がいるが、そうではない。ウランとタングステンとを比べてもその関係は逆になっている。原子量は炭素12を基準(12)として、それと同じ物質量*11の元素との質量比である。密度は単位体積当たりの重さである。固体の場合、元素によって結晶の構造が違うので同じ物質量でも体積が違ってくる。従って原子量と密度は比例していない。

 元素の中で最も密度の高い物質はイリジウムIrで22650kg/m、原子量は192.22である。  



*1 劣化ウラン弾 被曝深刻
*2 米国自治領サイパンの遺構(その4)
*3 High Explosive Anti-Tank
*4 Terminal Ballistics:ハ The Shaped Charge Warhead
*5 High Explosive Squash Head
*6 Armour Piercing
*7 Armour Piercing containing High Explosive
*8 Armour Piercing Discarding Sabot
*9 おそろしい劣化ウラン弾
*10 Periodic Table : uranium : index
*11 物質量標準-計量研究所

010816

 お盆休みを利用して子供達を連れて山村に住む友人の家に遊びに行った。友人とその子供、近所の子供と一緒に川遊びをした。川遊びの後は近くの温泉*1にみんなで入った。

 温泉は道の駅*2の中の施設でジャグジー、露天風呂やサウナなどがあった。子供達は喜んで色々な風呂に入っていた。サウナの横には水風呂があり、子供達は冷たいのも構わず浸かっては奇声を発して遊んでいた。サウナに入らずには水風呂にとても入れないので、喜んで水風呂に浸かっている子供達をその傍らで立って見下ろしていた。筆者は手拭いで前を隠す習慣がないので、「それ」は自由闊達な状態であった。

 すると友人の近所の子供が筆者の股間を覗き込み「おじさん、金玉*3でかいね。でも金玉がでかいとお金が貯まらないんだって、母ちゃんが言ってたもん」とのたまった。筆者の金玉の大きさはともかく、そのようなことを母親が子供に話したというのはその家庭では一体何があったのだろうか。これはほのぼの家族と言っていいのだろうか。



*1 信州蔦木宿の施設紹介
*2 信州蔦木宿
*3 生殖器の構造

010817

 竹とんぼ*1の飛翔能力はどれくらいだろうか。滞空時間でもいいし、高度でもいい。とにかく動力の供給無しにどれくらい飛んでいられるのだろうか。100m以上の高度まで飛んでいく竹とんぼ*2も開発されているようである。

 最初に与えた回転エネルギーを出来るだけ保持するために色々な工夫*3が必要である。はずみ車のように羽根の両端を重くしたり、軽くて丈夫な竹を選んだり、羽根の形を流体力学に基づいて設計したりするのだろう。基本的には最初に与えた回転エネルギー分の高さしか上がることが出来ないのだろうが、上昇気流を上手く羽根の回転に変換して更に飛び続ける構造などがあるかもしれない。  

 形、大きさ、材料を問わないという竹とんぼ大会があったら最高高度はどれくらいになるのだろう。勿論、初速を与える方法はどんな方法でもよい。モーターを使ってもよいし、手で回転させてもよい。ただし飛翔中の「竹とんぼ」にはエネルギーを与えない、竹とんぼに動力を装備しない、とする。

 羽根の剛性、空気の粘性などを考えると羽根の最適な大きさが決まってくる様な気がする。大きい方が有利なような気がするが、初速を与える方法、羽根の剛性を考えると数十cm程度の大きさに落ち着くのかも知れない。



*1 竹とんぼ
*2 今回のつくろう:「竹とんぼ」
*3 スーパー竹とんぼ

010818

 親戚で法事があった。故人の供養のための宗教は浄土真宗なので「正信偈(しょうしんげ)*1」と呼ばれるお経を参加者全員で唱えた。全員がこの経文を空で言える訳がないのでこれを書いた小冊子が全員に配られた。

 この冊子をパラパラ見ていると「五十六億七千万」という言葉から始まる経文が出てくる。これは浄土真宗での最大の年中行事である報恩講*2の際に正信偈に付け加えて読まれる和讃という経文であるらしい。

 これを隣に座っていた息子に見せながら聞いた。

「五十六億七千万年後にどうなるか知っとる?」
「知らない」
弥勒*3が出てくるらしい」
「弥勒って?」
「世界中の人を助ける人」
「どんなヒーロー*4なんだろう。でも五十六億七千万年後に地球はあるの?人間はいるの?」
「さぁ、太陽が巨大化して地球は飲み込まれている*5かも知れんなぁ。弥勒がどんなのかはお経が終わったら教えてやろう」

 法事が終わってから百科事典で弥勒*6の絵を見つけて息子に見せた。

「なんだ、かっこ悪いなぁ」



*1 お経CD
*2 お東ネット:真宗大谷派(東本願寺)名古屋別院・報恩講について
*3 地蔵と弥勒
*4 東映ヒーローネット
*5 asahi.com: 太陽の寿命は? - ののちゃんのDO科学
*6 弥勒菩薩について

010819

 ポーズを取るのポーズは小休止や一時停止を意味するポーズpauseが由来だと漠然と思っていた。ポーズを取るのポーズはposeだから綴りも発音も違うが、全く違うというわけではない。

 気になって調べてみたらpose*1pause*2が語源になっているようだ。pauseは止まるという意味のギリシャ語の単語が語源らしい。



*1 pose 1. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000
*2 pause. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000

010820

 エピタキシー*1という言葉がある。英語で書くとepitaxy*2である。この言葉を分解するとepiとtaxyとなり、epi-は「上」「追加」などを意味するギリシャ語が語源の接頭辞で、taxy*3は「整列したもの」という意味のギリシャ語の言葉が元となっている。形容詞はエピタキシャルepitaxialで、エピタキシャル成長、エピタキシャル膜という具合に使う。略してエピともいう。ルイ・ヴィトン*4エピ*5とは違う。

 エピタキシーはある結晶面上にその結晶とは違う物質の結晶が、元の結晶配列を受け継ぎながら成長した状態をいう。例えば食塩の結晶に氷砂糖の結晶が成長している場合、これをエピタキシーという。このとき食塩の結晶と氷砂糖の結晶の境目は綺麗に揃っていなければならない。そうでないと結晶の配列が受け継がれたことにならない。

 実際に塩と砂糖がエピタキシーになることはないだろう。食塩の結晶*6はナトリウム原子と塩素原子が交互に規則正しく並んでいる。この並びに合わせて砂糖の分子が配列するのだが、ナトリウム原子や塩素原子に比べて砂糖の分子*7は余りにも大き過ぎるので上手く配列を受け継ぐことは出来ないだろう。

 エピタキシャル成長は元になる結晶の表面が非常に綺麗になっていなければならない。結晶の表面にゴミが乗っていれば、結晶を構成する原子の大きさに比べてそのゴミは遙かに大きいのでエピタキシーになれない。それに結晶が出来るためには結晶を構成する原子や分子が自由に動ける状態でないと配列がうまく出来ない。そこでゴミが付かないように真空の中で結晶成長*8させたり、原子や分子を自由に動かせるために物質を溶融させた状態*9気体状の化合物にした状態*10で結晶を作ったりする。

 エピタキシャルというと結晶表面の原子と原子とのつながりが重要なので、上記のような大がかりな装置が必要な気がするが、必ずしもそうではない。磁気テープ*11の磁性体の粉の表面にエピタキシャル成長させてテープ性能を高める技術がある。これは元となる磁性体の粉をある溶液の中で反応させれば、その磁性体の粉の表面にエピタキシャル結晶が成長する。こういう至極簡単なエピタキシャル成長方法もある。



*1 エピタキシャル成長
*2 epitaxy. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000
*3 -taxis. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000
*4 Louis Vuitton Web site : Louis Vuitton Cup, America Cup, travel accessories, vintage racing, city guides and classic cars
*5 LOUIS VUITTON EPI COLLECTION
*6 塩化ナトリウム(NaCl)の2億倍結晶模型
*7 砂糖(ショ糖)
*8 新型電子銃を用いた分子線エピタキシーによるSi薄膜の作製と評価
*9 LPE
*10 MOVPE
*11 maxell:製品情報:インダストリアル プロダクツ:BETACAM

010821

 写真が「写真」でなくなっている。

 写真*1の本来の意味は「実際のものをありのままに写す」である。この言葉はいつ頃作られたのか筆者はよく分からない。上野彦馬*2が作った言葉かも知れない。元々あった言葉を当てはめたのかも知れない。

 現在「写真」という言葉はカメラ*3で写した画像のことを指しているが、言葉の意味からすればカメラオブスクラ*4で作製された画像も写真になる。もっと拡大すれば単なる絵の具を使った写生も「写真」であろう。実際をありのままを写すのが写真であるから、どんなに稚拙な風景画でも描いた本人が「実際ありのまま」と主張していれば「写真」である。

 一般に言われている写真でも人物写真や風景写真は実際と瓜二つに見えるが、写真は平面に描かれた画像なので実際のものとは違う。結局、写真とそうでないものの境目ははっきりしない。「写真」という言葉にレンズとフィルムを使って得られた画像という意味が含まれていれば、はっきりするが、「写真」という熟語の中にはレンズもフィルムも意味する漢字は入っていない。一般に言われる写真をコンピュータグラフィック等を用いて合成したり修正したりすれば、それは既に「真」ではないと考えるのが普通だろう。しかし出来上がった合成写真、修正写真は見た目は写真である。つまり写真であるが、写真ではない。

 一方、英語で写真を意味するのはphotograph*5である。この言葉を解すると「光を使ってphoto描かれたものgraph」である。「真を写す」のではなく「光で描く」である。photographは光を使って描いた画像だから、合成しようが、修正しようが、photographである。photographには「実際」とか「真」という意味は含まれていない。

 言葉の成り立ちが、日本語の場合は、出来上がった画像に注目して「写真」という言葉を出来上がっているが、西洋語の場合はその画像を作る方法に注目して「photograph」という言葉を作っている。

 技術革新によって写真が「写真」でなくなる。しかしphotographは「photograph」のままである。不易な言葉を作るというのは非常に難しいものである。



*1 ニコン:写真の世界:久門 易 著「一眼レフ入門」第1回
*2 上野彦馬フォトギャラリー
*3 GR1s
*4 フェルメールとブレードランナー
*5 photograph. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000

010822

 ある読者の方から指摘を頂いた。ほぼ毎年恒例となっている正月以外に食する数の子*1の塩抜きについてである。

 年末に買う数の子は大抵塩漬けしてあるので、正月にそれを食べるためには塩を抜かなければ塩辛すぎて食べられない。筆者は大の数の子好きである。年末以外は店頭から塩漬け数の子が消えるので、毎年、年末に買った数の子を塩漬けのまま冷凍保存しておいく。思い出しては解凍して自分で味付けをして食べる。

 問題はこの塩漬け数の子の塩の抜き方である。塩を速く抜く骨(こつ)は真水につけるのではなく、海水の半分ぐらいの濃度の食塩水に漬けるのである。そうすれば数の子の塩分が速く抜ける、と思っていた。今回頂いた指摘によると実験では真水の方が明らかに塩分が抜ける速度が速いそうである。従って拡散の理屈通り*2で、濃度の差が大きければそれだけ塩の抜け方が速くなるのである。数の子が濃度差を関知する特殊な膜ではなさそうだ。

 では何故塩水につけるのであろう。そして何故塩水の方が速く塩分が抜けると思いこんでいるのだろう。都合のよいことに塩漬け数の子が冷凍庫に残っていたので、実験をしてみた。

 同じ分量の数の子をそれぞれ真水と食塩水に入れて同時に塩抜きを開始した。塩分濃度を数値化する測定器がないので筆者の舌が測定器となる。気温が高いので腐って食べられなくなるといけない。両方とも冷蔵庫の中に置く。これによって塩が抜ける速度が少し遅くなるかも知れないが、真水と食塩水との比較であるので問題はない。

 測定器*3の精度は食塩の微妙な濃度の違いを関知するほど精密ではないので、差が判るまで丸一日かかってしまった。実験を開始して12時間後にそれぞれの数の子の味を比べたが殆ど差がなかった。どちらもまだ塩辛かった。理屈から言えば既に差が付いてもいいはずであるが、差は検知できなかった。数の子を漬けた水をなめてみたが同じような辛さである。そこで真水、塩水を取り替えて更に12時間待った。

 24時間程度漬けて濃度差がはっきり判った。真水の方が完全に塩気がなくなっていた。塩水の方は若干塩味が残っている。これから言えることは真水の方が速く抜けると言うことである。真水で塩抜きをすると塩がなかなか抜けないと言うのは思いこみであったようだ。しかしそれ程速さには差がないような気がする。元々塩抜きに使う食塩水はそれ程濃度が高くない。だから数の子の塩分濃度が高い時、抜けはじめの時にはイオンが移動する量は真水も塩水も殆ど変わらないのだろうか。ただ、時間を掛ければ塩水の場合はその濃度よりも低くなり得ないから、その抜け方は真水に比べて永遠に追いつかない。

 では、何故真水では塩分がなかなか抜けないと思いこんでいたのだろう。恐らく数の子の味の所為である。塩分が抜けると苦みが出てくる。数の子そのものの味が苦い。これを塩分と勘違いしたのだろうか。それならばいくら真水に漬けておいても「塩分」はなくならない。

 上に書いたように塩が抜けすぎると数の子が苦くなる。この苦みをなくすには数の子を再び塩水につけて塩分を少し戻す。そうすることによって塩味と苦みが上手く作用しあって美味さが出てくる。つまり美味さを感じさせるのはうま味*4ではなく、味覚の複合化によるものである。塩水を使う理由にこの「うま味」を逃さないためと説明される場合がある。しかし数の子の細胞膜を通過するような分子の大きさの「うま味成分」が含まれていたとしたら、当然漬け水の方に数の子から流出しているはずである。一方、細胞膜を通過できない大きさであれば、真水だろうが塩水だろうが関係なくうま味は数の子から逃げていかない。従って「うま味成分を逃さない」のではなく塩水を使うことによって「うま味を作っている」のであろう。

 塩水で塩抜きをすると速く抜けるというのは、真水で塩抜きをすると塩水で塩味を戻す作業必要となり、最初から塩水で塩抜きをするよりも時間がかかってしまうからではないだろうか。従って「呼び塩」とは言っているが、これは数の子の塩を呼んでいる訳ではない。家事を効率的にするための「知恵塩」である。



*1 数の子
*2 プロセス要素
*3 健康ネット-健康ネット小辞典
*4 美味しいもの

010823

 商店街*1を歩いていたら「宇宙一安い」という看板を見かけた。靴屋さんだった。確かに地球上で一番安い靴であれば、靴を履くのは宇宙で地球人だけかも知れないので「宇宙一安い」のは決して誇大広告ではないだろう。

 多湖輝*2の「頭の体操*3」だったと思うが、商店街で客を呼び込むためにどのような看板を掲げるといいかと言う問題があったような気がする。確か「町内一安い」という看板が一番効果的である、と言う答えだったような気がする。「日本一安い」ではないのだ。実際に全国の価格調査を実施して本当に自分の店の値段が日本一安くても「日本一」と書くより「町内一」と書いた方がいいというのである。頭の体操でのその答えの理由を完全に忘れてしまっているのでどうしようもないが、確かに商店街の小さな店が「日本一」と謳っても誰も信用はしないだろう。従って「宇宙一」は論外である。

 店には商圏というものがある。どこの範囲まで地域の人がその店に買いに来るか、である。これは店から見た範囲であるが、客にもどこまでなら買いに行けると言う範囲がある。その範囲内で一番安くないと安い意味がない。店先の看板を見る人はその商圏にいる人だけなのである。だから「日本一安い」ことは事実であってもそれは客にとってはあまり意味がない。

 インターネットがかなり普及してこれを使った通信販売*4も昔と思えばかなり普及していると思われる。インターネットでは商圏は日本全国や世界中に簡単に広げることが出来る。もともと商圏が出来上がる理由は客が買いに行くのに時間と労力がかかるからであって、それがなくなれば商圏はいくらでも広がる。ただし、商圏がいくら広がってもその店の存在が判らなければ誰も買いに来ない。

 いくら商圏が広がっても宇宙までインターネットが広がるのはまだ先の話である。広がっても宇宙ステーション*5までであろう。従って「宇宙一」は論外である。



*1 @大須
*2 ATAGO CLUB
*3 頭の体操 著者 多湖 輝先生
*4 究極の耳掻き
*5 宇宙開発事業団 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター

010824

 以前、円周率の精密な計算*1は試みられているが、√2などの何となく判ったような数はそれ程詳しく計算されていないだろうと書いた。√2が何故何となく判った数かというとX*X=2の解(答え)の一つだからである。円周率πは有理数を係数とする代数方程式の解として表すことができない。この辺りが√2もπもどちらも無理数ではあるが、精密な計算がなされる境目になっているのであろう。

 そうしたら√2を小数点以下1374億3895万3444桁計算*1した人がいた。 円周率の計算で世界記録を持っている東京大学の金田研究室*1であった。成る程なと思う反面、世界にはもっと奇特な人はいないのか、と思ってしまった。

 円周率を語呂合わせで1000桁まで覚える方法*1があるが、√2を1000桁まで覚える方法は誰も考えないだろう。



*1 πの彼方
*2 Number of known digits
*3 Kanada Lab Homepage japanese version
*4 1000桁のπの覚え方  作者:村松芳子

010825

 ある言葉が方言かどうかはその言葉に漢字が当てられるかどうかで判断できる場合がある。辞書を引けば簡単に判るのだが、どんな漢字で書かれるのかを考えると引かなくても判ることもある。方言はその地方だけで通じる言葉なので書き言葉として定着するのはなかなか難しい。文書はその地方にとどまらない場合が多いので、出来るだけ普遍的な表記になるになる。だから方言が書き言葉として、更に漢字を用いて表現される機会は余りないと思われる。

 元々は全国で使われる標準的な言葉であっても古い言葉であるため、日常では使われなくなってしまっているものがある。ところがある地方ではそれが日常的に使われているとその言葉は「方言」と呼ばれたりするかも知れない。

 沢山という意味の「ぎょうさん」は辞書にも載っているし「仰山」と漢字で書くので全国で使われる言葉の筈だが、テレビジョンやラジオでは余り出てこない表現なので方言と思ってしまう。

 名古屋弁には久しぶりの意味で「やっとかめ」と言う言葉がある。この言葉は絶滅しかかっており、自然に筆者の耳にしたのはここ数年ない。恐らく名古屋に住む若年層はこの言葉を聞いたことがないだろうし、意味も知らないかも知れない。この「やっとかめ*1」は「八十日目」と書くと言われている。たまにこういう例外があるので気を付けなければならない。関西弁の「大きに」もそうである。

 最近、同じような例外を見つけた。名古屋弁で物などを共同で使ったり、分配することを「もうやい」という。もうやいが少し変化して「もうやいっこ」ともいう。「ちゃんともうやいで使(つか)おみゃあ」と言えば「きちんと共同で使いましょう」という意味になる。「これ、あぁますで、もうやっこして食べやぁ」は「これを上げますから、上手に分けて食べなさい」である。

 この「もうやい」は純然たる名古屋弁だと思っていたが、「催合(もやい)」が語源であることに気付いた。「催合*2」とは共同生産とか共有の意味である。

 この「もうやい」も死にかけている言葉である。



*1 いりゃーせ名古屋−名古屋弁セミナー−
*2 便利ツール[国語辞典]:催合い

010826

 夏の季語*1に葵がある。葵というと水戸黄門の「葵の紋」を思い浮かべてしまうが、季語の方は大きな花が咲く葵で、紋の葵ではない。花も咲くが小さい*2

 「葵」と呼ばれる植物は三種類あるようである。アオイ科の多年草の総称でタチアオイ*3フヨウ*4ゼニアオイ*5。ウマノスズクサ科のカンアオイ*6フタバアオイ*7。フウロソウ科のテンジクアオイ*8である。

 「科」が違うからと言って全然違う花か、と言えば必ずしもそうともいえない。分類*9は人間が勝手に決めたものであるので、上に書いた三種類の「葵」は皆同じ「葵」と分類する事も出来る。実際に花の名前を付けた人たちが皆同じ「アオイ」の仲間の花として分類したから「アオイ」という名前が付いているのである。

 必ずしも科学的分類でなければならないという理由はどこにもない。



*1 写真版 俳句歳時記365日
*2 フタバアオイ(双葉葵)
*3 タチアオイ(立葵)
*4 フヨウ(芙蓉)
*5 ゼニアオイ(銭葵)
*6 カンアオイ(寒葵)
*7 フタバアオイ(双葉葵)
*8 ゼラニウム 「テンジクアオイ」
*9 Terrestrial Life

010827

 名古屋の中心として中部地方にチェーン店を展開する「すがきや*1」というラーメン店がある。大手スーパーマーケットなどのビルのテナントになっている場合が多い。メニューはラーメンだけではなくソフトクリームやかき氷*2があるので、主婦が昼時やおやつにちょっと立ち寄ることが出来るようになっている。

 ラーメンのスープは豚骨のような白い色をしているが、味は鰹ぶしが基本になっている。普通のラーメンのスープと違うのだが、美味いのでどうやって作っているのかが昔から話題になっていた。そのスープの味を出すために蛇を使っている*3というのもあったぐらいである。チャーシューもすがきや独特の味で絶品である。麺は普通である。

 名古屋の人のラーメンに対する味覚はすがきやで確立されると言っても過言ではない。値段が非常に安いので大抵、高校生ぐらいになると下校途中で立ち寄るようになる。現在、ラーメンは270円(税別)*4となっている。

 今から30年ほど前石油ショック*5が起きた。この時、日本の経済はインフレ状態になっていた。確かこのような時代にすがきやはラーメンの低価格を守るために必死にコストダウンを図っていた。もしかしたら石油ショックと全然関係ない頃だったかもしれない。

 割り箸を廃止したことがあった。店舗から割り箸がなくなったのである。どうやってラーメンを食べるのか。箸の代わりにステンレス製のフォーク付きのさじが添えられた。さじの先端に三本指のフォークがついているものであった。これは学校給食の先割れスプーンとは違う。これによって割り箸分の節約が出来るようになったが、客から猛反発を喰らっていた。売り上げが落ちてしまったためか、結局、割り箸をまた復活させた。

 現在でもこのフォーク付きのさじが添えられている。このさじはすがきや独特のレンゲ*6として客に認知されている。



*1 SUGAKICO
*2 商品案内
*3 スガキヤに関するウワサ
*4 商品案内
*5 JNOC:第一次石油ショック
*6 中華食器シリーズ

010828

 「数(すう)が存在する」という言い方は適切なのだろうか。これを吟味するには「存在」とは何かを定義しなければならないが、何かとてつもなく難しそうなので、適当に考える。存在するとは見たり触ったりすることが出来ることで、頭の中で「考えたり」「思ったり」していることは「存在」するとは言わないとしよう。これでヒト以外の動物にも「存在」が定義できるような気がするが、「存在」という言葉自体がこの「存在」という言葉の定義に当てはまらなくなっているので、結局は「ヒト」にしか判らない。

 漠然とあるかないかを考えると、やはり「数」は抽象的な概念であって存在するとは言えないような気がする。虚数*1を 学校で習った時、「自乗して負になる数なんてあるのか」と驚いた記憶があるが、数そのものが単なる概念であるので、上の考え方に従えば実数だろうが自然数だろうが「あるのか」と言われれば「ない」としか言い様がない。

 こう考えていくと当然、数は人知れずひっそりとどこかに隠れて「ある」のではなく、人間がそれを数として認識して初めて現れるので、人間がどんどん数を作り出していくものであると考えるべきであろう。現れると言っても人間の脳の中での世界である。

 例えばキーボードを打って「19620201647731」という数をここに書いたとする。この数字列を「数」と認識すれば、ここで初めて数として出現したことになるだろう。web上で検索*2しても出てこないので、少なくともweb上では初めて出現した数である。

 この数はどんな数かと言えば素数*3である。素数かどうかを試すページ*4で入力してみると「素数」と出た。つまり素数としての「数」を今作ったと考えてもいいのではないだろうか。この数が素数であるとは今まで誰も知らなかった訳である。もっと言えばこの「19620201647731」と言う自然数の存在すら人類は知り得なかったかも知れない。

 世の中には奇特な人がいて、こんな素晴らしい素数*5を「作って」くれた。



*1 複素数(2)
*2 Google 検索: 19620201647731
*3 Prime Curios!: Home Page
*4 Prime Curios!: A Primality Test
*5 Prime Curios!: 88888...88887 (2691-digits)

010829

 家の近くに蛸畑*1という名の交差点があり、通りがかるたびに不思議な地名だと思っていた。

 ここは海からはある程度離れているが、ここ一体の地名は鳴海*2なので、かつては海に面した土地だったのであろう。近くには星崎*3という地名もある。それにしても「蛸の畑」とは一体何なのだろう。

 蛸が浅瀬に集まって蛸の頭が辺り一面にぎっしりと並ぶ光景が年に一度見られたのではないかとか、蛸が畑を作っていたとか、勝手に想像していた。調べている内に蛸畑の由来が書かれているページ*4を見つけた。蛸が里芋*5を食べに来て畑を荒らしたそうである。蛸は里芋を食べるはずはないのにどうしてこんな伝説が出来たのだろうか。おそらく里芋のぬめり*6が蛸のぬめりを連想させたのだろう。

 また田子(たっこ)畑が変化した*7ともいう。田子とは「高いところ」という意味らしい。田子の語源でアイヌ語説*8があるが、蛸畑はアイヌ語とは全く関係ないだろう。

 里芋を食うのは*9であって烏賊ではない。どちらにしても想像であるので烏賊でもよいはずである。烏賊は蛸のように地上を歩くことが上手くできないからだろうか。やはり蛸の方が愛嬌があるので昔から好かれていたのかも知れない。



*1 愛知県名古屋市緑区鳴海町蛸畑付近
*2 有松・鳴海絞会館
*3 愛知県名古屋市南区星崎1丁目付近
*4 蛸畑の話
*5 サトイモ(里芋)
*6 里芋のぬるぬる
*7 緑区 鳴海 地名ガイド
*8 田子町のプロフィール
*9 蛸

010830

 幼少の頃、サトウサンペイ*1スカタンCO.(スカタンカンパニー)*2という漫画を読んでいて意味の全くわからない表現に出くわした。主人公が行きつけのスナックのママに近頃の店の景気について尋ねると「女のふんどしよ。食い込むばっかり」と答える場面があった。「女のふんどし」という幼少の筆者にとって想像を絶する代物で頭が一杯になり、その意味を考えることがとても出来なかった。何となく淫靡な雰囲気を察知したので、周りの大人にその意味を聞くに聞けない状態であった。この言葉はかなり衝撃的だったのでいまでも憶えている。

 同じような洒落言葉で「行徳(ぎょうとく)の俎(まないた)」というのがある。「女のふんどし」と「行徳の俎*3」とがどのように同じなのかというのは特にない。筆者が何となく同じような洒落言葉と思っているだけである。

 「行徳の俎」は妻と結婚する前、デートの時に「行徳の俎って、どういう意味か知ってる?」と言われて初めて知った。行徳*4ではバカ貝*5がよく取れて、この土地で使われる俎はそのバカ貝で擦れていることから「馬鹿で擦れている」という意味である。どうしてそういう話題になったのかとんと憶えていない。その時は別に喧嘩をしていた訳でもなかった。

 「女のふんどし」と「行徳の俎」との接点は、女である妻に「行徳の俎」の意味を教えて貰ったことだけである。これが「同じような洒落言葉」と思っている原因なのかも知れない。



*1 日本漫画家協会 サトウ・サンペイ
*2 サトウサンペイ
*3 吾輩は猫である
*4 行徳の町案内−ざっと行徳のことを知ってみよう−
*5 バカ貝

010831

 自然数の逆数の足していくとどんどん数が増えていく。自然数は1、2、3・・・と続く。その逆数は1/1=1、1/2=0.5、1/3=0.333…、1/4=0.25とだんだん小さくなる。小さくなる値を足していくのだから、どこか一定の値になってもよさそうなものである。1兆分の1や1無量大数*1分の1を足していってもそんなに数は増えないように思える。自然数の数が有限であればその逆数の和はどこかで落ち着くが、無限個あるのでそうはいかないのだろう。

 自然数の逆数の和*2はいくつか。それを示すのはそれ程難しくない。逆数の和をSとする。

S=1/1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 + 1/7 + 1/8 + ・・・
=1/1+(1/2) + (1/3 + 1/4) + (1/5 + 1/6 + 1/7 + 1/8) + ・・・

上記の式はそれぞれの括弧の最後の項が2の累乗分の1になるように括った。括弧の中の逆数を計算しやすい逆数に置き換える。この和をS'とする。

>S'=1/1+(1/2) + (1/4 + 1/4) + (1/8 + 1/8 + 1/8 + 1/8) + ・・・

1/3→1/4、1/5→1/8と置き換えた逆数は置き換える元の逆数よりも常に小さい。従ってS'はSよりも小さい。

それぞれの括弧の中を計算すると全て1/2になるので、S'はこれを無限個足していくのだからいくらでも大きくなる。
S'=1/1+(1/2) + (       1/2        ) + (                 1/2                  ) + ・・・→ ∞

いくらでも大きくなるS'よりも自然数の逆数の和Sは大きいのだから
S>S'= ∞

となって、S=1/1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 + 1/7 + 1/8 + ・・・→ ∞が示された。

 ところが自乗の形になった自然数の逆数の和になるとある一定の値に近づいていく。

Ss=1/1                          + 1/4                                                  + 1/9           ・・・ + ・・・

はπ2/6という値にどんどん近づいていく。どうしてこの値に近づいていくのか。なぜ円周率が出てくるのか。その理由の大体の雰囲気がこのページ*3で判る。といっても英語なのでなかなかその雰囲気は味わいにくい。ただしこの証明は厳密ではないらしい。

 上の式の書き方から判るように自然数の逆数の時よりも、かなり飛び飛びに逆数を足していくことになる。だから何となく無限大にはなり難いと想像は出来る。よく考えてみるとただの自然数と自乗になっている自然数の個数は同じである。それは自然数を自乗すればその数は自乗の形になるので、当たり前といえば当たり前である。

 一方、素数の逆数を足していく*4と無限大になってしまう。これを考えると素数の飛び飛び具合は自然数の自乗形(平方数*5)よりも密であることが判る。未解決の数学問題で「素数は平方数と次の平方数との間に必ずある*6」というのがあるらしく、この命題はほぼ正しいと予想されているが、証明は未だなされていない。そうだとすると平方数と次の平方数との間にある素数の個数は1つだけではなく、あるとすれば平方数が大きくなる毎にその間にある素数の個数がどんどん増えていくことになる。素数は考えているよりも沢山あるようだ。



*1 日本語で一番長い単語
*2 How Big of an Infinity?
*3 Real Analysis - Euler
*4 ハーディ・リトルウッド予想とアルティン予想
*5 『平方数?』
*6 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/eijitkn/Q07.png



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