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0106雑記草
010602日本語における数詞は少し混乱している。筆者が数を唱える時は
ゼロ、いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう
であるが、逆から数える場合は
じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ごぉ、よん、さん、にぃ、いち、ゼロ
である。
「ゼロ」は英語が語源で、「よん」や「なな」は大和言葉*1で、あとは漢語が語源*2である。それに上りと下りで数の唱え方が変わってしまうのも考えてみればおかしなことである。
この記事を書くきっかけになったのはこのページ*3を偶然見つけたからである。ここでは「零」と「ゼロ」の違いは語源の違いというわけではなく、意味そのものの違いがあると書いてある。つまり「ゼロ」は全く無しの意味で基数詞だが、「零」は零細の様に「わずか」とか「小さい」だから意味そのものが違うというのだ。天気予報で降水確率を「零パーセント」というのは雨が降る確率が「わずかでもある」ことを示しているらしい。
確かに「零」という漢字には「わずか」という意味はあるが、数詞の「れい」にはそんな意味はない。降水確率*4の0%は当然のことながら、数値の「れい」である。アナウンサーが「ゼロパーセント」と読まない*5のは単に「ゼロ」が漢語以外の外来語だからである。
それにしてもこの降水確率の「零」と「ゼロ」に関しては同じ文面で違う制作者によるページが何ヶ所かある。例えばここ*6やここ*7。最後のオチまで同じである。
出来るだけ数詞を唱える時は大和言葉か漢語かに統一した方がいいのだが、「本」や「枚」などの助数詞を付ける時はなかなか上手く言えない。「4本」は大抵「よんほん」と読むし「7本」は「しちほん」だったり「ななほん」だったりする。「4%」の時は例外なく「よんぱーせんと」である。
*1 日本語の数の読み方
*2 役に立たない中国語講座(その1)日本語の数字の読み方
*3 降水確率はゼロ%じゃない!? 2000/04/25
*4 気象、地震に関するよくある質問事項集
*5 991025
*6 ゼロとレイの違い
*7 降水確率はゼロ%じゃない!? 2000/10/26
010603筆者のパソコン*1で使っているwwwのブラウザを変えた。筆者の使っているOSはMacOS8.6で、今までのブラウザはNetscape Communicator4.7*2であったが、iCab*3を主に使うようにした。iCab*4はドイツで開発されたブラウザでMac用しかない。一番の特徴はメモリの使用量の少なさで、4.7MBあればいい。Netscape Communicatorに比べると三分の一程度である。筆者はMac派*5なのでInternet Explorer*6を使わないことにしている。だからこれとの比較は出来ない。
iCabはNetscape Communicator4.7にはない機能が沢山ある。ソフトを終了しても履歴は残るし、自動ダウンロード機能もある。それに広告が別のウインドウで自動的に出るのを止めてしまう機能もある。
ただし、Netscape CommunicatorやIntenetExprolerで当然のように出来るリンクされた文字をドラッグして他のウインドウでそのリンク先を表示させることが出来ない。これは少し不便である。
*1 ハードディスクの交換
*2 Netscape 日本
*3 iCab 日本語版ホームページ
*4 iCab - Internet Browser
*5 Macintosh トラブルニュース
*6 Internet Explorer Home Page
010604ローマ字の「T」と漢字の「丁(チョウ、テイ)」と「片仮名の「テ」は形も文字が表す音もよく似ている。
ローマ字の起源を辿るとその親はエトルリア文字*1、その元はギリシャ文字、またその元はフェニキア文字*2、またまたその元はシナイ文字*3、そして一番の元はエジプト文字、ヒエログリフ*4である。
「T」の起源がヒエログリフ*5やシナイ文字のどの文字に当たるかは筆者にはよく判らない。このページ*6によれば、「T」は「記号」や「標識」の意味らしい。
漢字の「丁」は器から水があふれ出る様子を示したものらしい。横棒が器の縁で縦棒があふれ出る水である。
片仮名の「テ」は漢字の「天」の略からである。「て」は「天」の草体である。因みに郵便*7の「〒」は逓信(ていしん)の「テ」を図案化した物*8である。ポストフィッシュ*9という名の魚がいる。体の模様が郵便のマークに似ているからである。片仮名の「テ」が語源だから英文法や用法の間違いを超越した真の和製英語*10である。
それぞれ全く異なる起源であるが、偶然にも形と音がそっくりになっている。
*1 Written characters of the world エトルリア文字
*2 Written characters of the world フェニキア文字
*3 SPHIN
*4 Written characters of the world ヒエログリフ
*5 L'ecriture eyptienne : une image du monde
*6 基礎現代ギリシア語講座
*7 ゆうびんホームページ
*8 〒, ゆうびんマーク, 郵便記号
*9 PETPET:ペット大図鑑:淡水魚編
*10 林家三平
010605物欲*1にも何らかの理由があれば、罪深い欲のある自分を納得させることがある程度はできる。そこで結婚してから丁度切りのいい年月が経とうとしているので、それを記念して妻と揃いの時計を買うことを画策した。この考えには妻も賛同してくれた。結婚記念日は10月だからまだまだ先だが、高い買い物になりそうなのでどんな時計を買うかを充分吟味しなければならない。そのために腕時計に関する情報を収集している。
こうしてはっきりとした理由があれば「物欲」という言葉は当てはまらなくなってくる。
ある腕時計情報誌*2を読んでいたら、ある腕時計の記事に目が留まった。それはスイスの時計製造会社「Ulysse Nardin ユリス・ナルダン*3」の「Freak」という名の腕時計である。値段は350万円。これは高すぎるので記念品の候補にはなっていない。
ここで取り上げた理由は他にある。まずその時計の外観*4を見て頂きたい。普通の機械式腕時計にある細い針がない。その代わり時計の作動機構*5自体が分針*6と時針*7の役目をしている。従って作動機構自体が文字盤の中で回転するようになっている。作動機構が針の役目をしているので意匠的にも見栄えをよくするため左右対称に設計されている。通常の時計の作動機構は左右対称にはなっていない*8。
これだけでもここに書く価値があるが、これらは一般の時計情報誌*9でも書いてあることである。これからが筆者が久しぶりに感動したことである。
機械式時計には針の運行を一定にするために脱進機*10という機構が付いている。通常はがんぎ(雁木)車*11とアンクル(がんぎ)*12とテンプ(天府)*13 で構成されていて、往復回転運動するテンプの周期をアンクルで伝えることにより、ゼンマイの力で回ろうとするがんぎ車を一定の速度で回転させ、針を正確に運行させるのである。
ところがこの脱進機の重要部品であるがんぎ車とアンクルをなくしたのが「Freak」である。これによって摩擦を最小限に押さえるアンクルの先に付いているルビーも油も不必要になったらしい。
その機構はがんぎ車の代わりに二つの同じ大きさの歯車*14を使用している。その両方の歯車には他よりも少し突起の出た数本の歯が等間隔に並んでいる。テンプの動きに合わせて二つの歯車の少し出っ張った歯を交互に引っ掛けて止めることにより、一定の周期を作り出している。
この二つの歯車は摩擦と摩耗をできるだけ無くしたいのでその材料は固くて軽い材料がいい。しかも小さな部品なので微細加工がし易い材料が適している。そこでその材料として採用されたのはシリコン単結晶*15である。
このシリコン単結晶を薄く輪切りにしたウェハ*16を用いて一度に大量の歯車を作る。歯車の映像をシリコンウェハに転写*17してプラズマエッチング*18という方法を使ってウェハを歯車の形*19に削るのである。この技術はLSI製造技術の応用である。ただし歯車を作るにはLSIを製造するのとは少し違うこと*20をしなければならないだろう。このような加工は機械時計製造会社ではできないので、この歯車の製造技術を開発したスイス電子マイクロテクノロジー研究センタ*21で製造しているはずである。
デジタル時計などに用いられるLSI*22を作るためのシリコン単結晶とLSI製造技術とを使って機械式腕時計の機械部品を作ったところが凄いのである。
*1 物欲を押さえる方法
*2 とけいビギンnet
*3 Ulysse Nardin - Mechanical Chronometers and other rare timepieces
*4 Ulysse Nardin - Freak
*5 Automatic Chronograph Caliber Zenith El Primero 410 (3019 PHF)
*6 Freak Movement - Minutes
*7 Freak Movement - Hours
*8 Zenith El Primero movement
*9 MONO ONLINE | バックナンバーリスト
*10 時計の心臓部 <テンプ>
*11 輪列からエスケープへ
*12 輪列からエスケープへ
*13 じしゃく忍法帳 / 第42回「時計と磁石」の巻
*14 特開2000-304873
*15 CZ
*16 The Silicon Journey
*17 パターン形成
*18 超LSIにおける超微細加工技術
*19 http://mems.cwru.edu/shortcourse/figure/I_2.12.gif
*20 2 MICROFABRICATION AND MICROMACHINING
*21 CSEM --> microtechnology: swiss center electronics: electronic: bioengineering: biochem: biochemical: biochemistry: bio: biomolecule: molecule: detection: detect: diagnostic: electrochem: electrochemical: microsystem: nanotechnology: optic: optical: pharmacetical: sensing: sensor: surface
*22 LSIの世界
010606「オーバーホール」を「overwhole」と思っていた。本当の英語の綴りは「overhaul*1」である。
オーバーホールというのは分解検査や分解修理のことなので、隅から隅まで徹底的に見るという意味で「overwhole」と勝手に解釈していた。「overall*2」「over all*3」という言葉はあるが、「overwhole」という言葉は辞書にはない*4。ただし検索サイト*5で「overwhole」をキーワードにして調べると何件か出てくる*6。文脈からすると「whole*7」の意味で使っているようだ。
「overhaul*8」は航海用語だったらしい。船を丘に引き上げて修理をするという意味からだろうか。
「rice*9」と「lice*10」とを間違えるとか、「agency*11」と「Asian*12 sea」と「Aegean Sea*13」とが聞き分けられないというのではなく、聞きかじった英語を上述のように勝手に意味を解釈して自分が知っている別の英単語の綴りを当てはめてしまうことが時々ある。「flea market*14」は正にこれである。「蚤の市」という適切な直訳があるのでこれを使っていれば、「free market」のような間違いは起こらなかった。
*1 EXCEED英和辞典
*2 EXCEED英和辞典
*3 EXCEED英和辞典
*4 EXCEED英和辞典
*5 google
*6 検索語句:overwhole
*7 EXCEED英和辞典
*8 EXCEED英和辞典
*9 EXCEED英和辞典
*10 EXCEED英和辞典
*11 EXCEED英和辞典
*12 EXCEED英和辞典
*13 Classical Mythology Online - Aegean Sea
*14 EXCEED英和辞典
010607あやとりを幾つか憶えた娘*1に「もっと他にないか」と聞かれたので、インターネットで調べてみた。「国際あやとり協会*2」というページを見つけて、そのページのリンク集に海外のあやとり関連*3のページが掲載されていた。
そこに「World-Wide Webs*4」という筆者好みの名前のページがあった。ページのデザインもスッキリしていて好ましい。あやとりの形を説明する絵も黒一色の線画でますます嬉しくなる。
しかし英語で書いてあるので読み難くて仕方がい。読み難いだけならいいが意味がさっぱり解らない。日本語でも文章であやとりの手順を説明するのは難しい。「小指の手前の糸を人差し指の糸の下を通って親指で持ってくる」と書いてあっても初めての人にとって何がなんだかさっぱり解らない。
しかもそれが英語で書いてあるので解読するのにかなり苦労する。自分が知っているあやとり、例えば「梯子*5」の作り方を解説している文章*6と自分の指の動きを比較しながら文の意味を把握しようとした。が、なかなか難しい。
ようやく解ったつもりになって梯子よりちょっと難しそうな「An Apache Door*7」に挑戦してみた。
全く出来ない。
*1 すみれ
*2 ISFA japan homepage
*3 海外の「あやとり」関係サイトへのリンク
*4 String Figures from Around the World
*5 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ysisido/web1b.gif
*6 String Figures of Medium Difficulty
*7 http://members.nbci.com/_XMCM/darsie/string/apache_door.gif
010608中枢、枢機卿、枢軸国、枢密院。「枢」と付く言葉がなんとなくかっこよく感じていた。旧字は「樞」なのだが、これよりも「枢」の字の方が「すう」という語感によく合っているような気がする。
「枢」とは大切な点という意味である。日本語では「くるる」のことらしい。「くるる」というのは初めて聞いた言葉だったが、「とぼそ」と「とまら」のことのようだ。
「とぼそ」も「とまら」も初めて聞くような言葉であった。これらは戸の「かまち」の部分にあるらしい。一般名詞の「かまち」も初めて知った。山田かまち*1はここからだろうか。
「かまち(框)」は戸や障子などの建具の周囲の枠のこと、「とぼそ(枢)」は戸臍(とほぞ、戸のへそ)の意味で回転式の戸の支点が入る敷居とその上の横木にあけられた穴のこと、「とまら(枢)」は「とぼそ」にはめ込むため戸に付けた出っぱりのことのようである。
「とぼそ」と「とまら」との組合わせを「くるる(枢)*2」という。これがないと戸や扉が機能しないので大切な点ということになる。
最初に挙げた言葉を英語にするとまたいい感じである。中枢は「center」だから大したことないが、枢機卿は「cardinal」、枢軸国が「Axis power」、枢密院が「Privy Council」である。特に枢軸国の「Axis power」がいい。日独伊三国同盟の「the Rome-Berlin-Tokyo Axis」という言葉の響きもわくわくさせる。こういった戦時中の造語には精神を高揚させる語感のものが多かった。名前を付ける時にはこういう効果を意識しているのであろう。
ただ、「Axis」はドイツ語*3では「Mittellinie (die Mittellinie Rome-Tokyo-Berlin)*4」で、イタリア語*5なら「asse (l'Asse Roma-Berlino-Tokio)*6」のようだ。それぞれの国の言葉でもいい感じだ。
*1 山田かまち 水彩デッサン美術館
*2 インフォシーク:大辞林
*3 AltaVista- World / Translate
*4 Tampico auf Zeile
*5 AltaVista- World / Translate
*6 Avvento nazismo e politica estera italiana
010609今日は何の日*1か、という問いかけに対して「○○が生まれた日」とか「○○が達成された日」というのがよくある。この場合、過去の日付は旧暦なのだろうか、新暦なのであろうか。過去の旧暦の日付をそのまま新暦の日付として「○月○日の今日は○○の日」としているのだろうか。
屁理屈になるが、「今日は何の日か」で「過去の日付けの過去の出来事」をいうのはおかしい。今日は今、現在であって「一年前の今日」というのはない。「一年前の今日と同じ日付の日」 でしかない。だから過去のその日付が新暦だろうが旧暦だろうが、もともと「今日は何の日か」はその過去の出来事が起こった日付だけが意味があって、正確に今日から365日の何倍前という意味ではない。
「今日は○○が生まれた日」と言われると、筆者は今の季節や気候を思いながら「こんな日に生まれたのか」と考えてしまう。実際には生まれた場所が違えば気候は違うし、その日付が旧暦ならば季節もかなりずれてくるだろう。
前から気になっていたのだが、暦と季節の関係がよく判らない。テレビやラジオのニュースで「今日から暦の上では夏」という表現をするが、実際の感覚では時期が早すぎる様に感じられる。これは旧暦の日付で季節が決められて、そのままの日付で新暦に当てはめてしまった為にずれてしまっているのだと思っていた。例えば今日は旧暦で言えば四月十七日で、この時期は梅雨と言う季節だとする。これをそのまま日付だけを新暦に持ってくれば、新暦の四月十七日が「梅雨」となり、時期が早い、と感じるわけである。本当は今日の日付は旧暦で「閏四月十七日*2」なので、閏月を新暦にどうやって当てはめるのだ、と一瞬考えたが、当てはめること自体が意味がないのだからいいのである。
実は全く違っていた。暦の季節は「二十四節気*3」と言って、一年間の太陽の動きを24等分した位置を基にして決めたもので、月の満ち欠けを基にした太陰暦の暦と別に決められたものであった。ただ、全く関係ないのではなく、「二十四節気」を基に太陰暦の月名を決めているらしい。旧暦の月は「一日(ついたち、朔日)」は新月から始まるが、その月が何月かを決めるのは「二十四節気*4」の「気」の日が含まれる月をその月名としているようだ。そして月の満ち欠けの周期の日数は太陽の一年の十二分の一の日数よりも少ないので、「気」が含まれない月が出てくる。そうなると月名を付けられないから「閏月」となり、直前の月の名前に「閏」を付けてその月の月名にする。
だから「暦の上の季節」の時期は新暦との差はない。旧暦の月名と季節は直接関係ないのである。ずれているのは現代の季節と日付との結びつきであった。
春はもともと正月から始まっていたのだが、いつの間にか春は三月から始まることになっている。今まで疑問に思ったことがなかったが、どうしてだろう。西洋文化の影響だろうか。
*1 ZDNet: NetLife - WebGuide「今日は何の日?」
*2 旧・新暦対照表(2001)
*3 二十四節気の計算
*4 旧暦の月の決め方
010610小林礫斎*1という人がいた。ある雑誌を読んでいて初めてこの人物を知った。箪笥や硯箱などの家具の精密な小型模型*2を作る職人であった。
小さい物に対するあこがれ*3は昔から誰にでもあるような気がする。小さい物の中には自分たちがいる世界を縮小した微小世界*4の存在を期待しているのかも知れない。これは世界共通*5なのであろう。精密な家具調度品を備えたドールハウス*6などはその典型である。シェークスピアのThe Merry Wives of Windsor*7に出てくる表現で「The world is mine oyster*8(世界は私の意のまま)」も微小世界へのあこがれが含まれていると思う。
日本の場合、その小さな物は微小世界を構成する部品ではなく、それで完結した微小世界を作り上げるのが得意である。たばこ入れや印籠のひもの端につける帯にはさむための細工物である「根付け*9」もその一例であろう。礫斎の作品も単に寸法が小さいだけはなく、そこには微小世界の存在を前提としたかのような精緻さを作り込んでいる。
読んだ雑誌には「礫斎は指が太く、眼は近眼であったにもかかわらず」とあった。素手ではなく道具を使うのだから、指が太いことが精密な作業に不利であるとは一概に言えないが、指が太いことと微細作業との対比には意味がある。しかし近眼であることは不利ではない*10。むしろ有利である。近眼は通常の視力の眼より短い距離でも焦点を合わせることが出来るので細かい作業には向いているのである。
*1 小林礫斎 本名夏太郎
*2 江戸の粋 小林礫斎
*3 小宇宙
*4 たばこと塩の博物館
*5 Mainichi INTERACTIVE 毎日新聞社主催イベント
*6 マイ・ドールズ・ハウスへようこそ!
*7 The Merry Wives of Windsor. Craig, W.J., ed. 1914. The Oxford Shakespeare
*8 Act II. Scene II. The Merry Wives of Windsor. Craig, W.J., ed. 1914. The Oxford Shakespeare
*9 Wood and Ivory Japanese Netsuke
*10 近視の手術
010611物欲の一つが満たされた。以前、漢字五万字を印刷したポスター*1について書いた。これの存在を知った時、欲しくなったが、そのきっかけとなったのは古い広告だったのでもう売っていないと思ってあきらめていた。
この記事を読んだ読者の方から、このポスターはまだ売っている*2という情報を頂いた。この方は過去に購入されたそうだが、知人に見せびらかしているうちになくされたそうである。
早速オンラインで購入した。税込み1260円。送料310円。本体値段は変わっていない。支払いはクレジットカードを用いた。
これが昨日届いた。こんなに文字が沢山あるなんてローマ字を使っている国の人々には理解できないだろう。漢字を使う国民が見ても凄いと思うのだから間違いない。それにこれらの漢字の活字を作るのは大変である。ポスターの字は明朝体であるが、これをゴシック体にしようとすればまた凄い長い年月が掛かりそうな気がする。もう完了しているかも*3知れない。
このポスターでまず最初に確認したのは世界で最も書く手間が掛かる文字*4としてよく話題になる*5この字である。
龍 龍*6 龍 龍 これで一字の漢字である。訓はなくて音読みが「テツ」、意味は言葉が多い様子である。総画数で64画になる。こんな漢字を含めて50294の漢字が収録されている。
*1 漢字五万字
*2 これが5万字 ポスター
*3 ようこそ、「今昔文字鏡」の世界へ
*4 画数の多い漢字
*5 東大明朝とJIS漢字の包摂規準
*6 最も画数の多い漢字とは?
010612幼少の頃、将棋*1の憶え立てで友達の家に行っては将棋をやっていた時期があった。友達も皆、憶えはじめた時であったのでその実力はどんぐりの背比べであった。
ある日、一人の友人の家に将棋を挑みに行った。確か夏だったような気がする。よくテレビのCMか何かに出てくるみたいに縁側に二人腰掛けて、蝉時雨の中、カルピス*2を飲みながら将棋を指していた訳ではない。
八畳ぐらいの畳の部屋の真ん中で麦茶を飲みながら折り畳み式の将棋盤を二人で囲んでいた。愛知県の平野部*3の夏は相当蒸し暑くなるのだが、部屋にはエアコンはなかった。この頃は一般家庭での空調施設の設置は殆どなかった。
自分が優勢でどんどん攻めていった。自分の番で相手の玉をどのように詰もうか必死に考えていた時に友人が言った。
「おい、お前。自分の王様はどうした」
ふと自分の陣地を見てみると自分の王将がなくなっている。顔を上げるとその友達が手を差し出した。手の平には、なくなっていた自分の王将があった。
「でへへ、お前の負けね」
全くルール*4を超越しているが、自分の陣地を顧みずに攻めることばかり考えて相手の行動に全く気付かなかったのである。そういった意味で負けである。友人のルールに囚われない発想、かつ相手の盲点を突いた行動に感心してしまった。
その後、仲間内ではこの行為がしばらくの間流行った。
*1 日本将棋連盟
*2 CALPIS_INDEX
*3 愛知県一宮市千秋町佐野付近
*4 将棋幼稚園
010613昔、名古屋のテレビCMにはそれ専用の歌がよく作られていた。今でも沢山作られて放映されているのかも知れないが、最近はあまりテレビジョンを見なくなったのでよく判らない。
一番好きだったのは「マルアイ花がつお*1」の歌である。
ぼーくの隣のおばさんはぁー
アメリカ帰りのおばさんでぇー
へぇーんな言葉で言うんだよ
『オー、マルアイノハナガツオー、栄養タプーリネ』
最後の「タプーリネ」というのは「たっぷりね」のことで、「タプーリネ」の「リ」の部分は思いっきり巻き舌で発音して歌っていた。
他には
名古屋牛乳*2「とてもとっても元気なの、名古屋牛乳飲んでるの・・・」
大須ういろう*3「ぼんぼんぼんと 時計が三つ 坊やおやつの時間です・・・」
納屋橋饅頭*4「なごやー 名古屋の名物は めいぶつは何はなくとも 納屋橋の・・・」
両口屋是清 千なり*5「お里帰りにあの子が買うた 千なり一箱二箱三箱・・・」
さんわの若鶏*6「・・・さんわさんわさんわの若鶏 おいしったら ないね」
名古屋地下街*7「もぐらのちかちゃん いったとさ なんなん名古屋の地下八丁・・・」
オリエンタルカレー*8「・・・オーリエンタルカレェー」
青柳ういろう*9「ぽぽぽいのぽい 白黒抹茶あがり(小豆)コーヒー柚桜・・・」
青柳ういろうフルール「フルフラフルール 何が降ーる・・・」
名古屋トヨペット*10「行ってみようよ 名古屋トヨペット」
松坂屋*11「・・・松坂屋ぁー」
中部電力*12「・・・」などなど。
松坂屋の歌は作曲中村八大、作詞永六輔*13だったような気がする。歌詞は最後の部分しか憶えがない。中部電力の歌は曲は思い出せるのだが、歌詞が思い出せない。確か歌詞があったはずである。
*1 マルアイ ホームページ
*2 名古屋牛乳株式会社
*3 大須余話
*4 納屋橋饅頭本店
*5 両口屋是清
*6 SANWA GROUP HOME PAGE
*7 サンロードへようこそ!
*8 オリエンタルカレー
*9 東海の味 TOKAI no Aji
*10 NTP WebShowCase
*11 Matsuzakaya
*12 ようこそ!中部電力ホームページへ
*13 松坂屋のCMソング
010614仏教ではこの世で亡くなった人があの世でどのような状態になるかが決定されるまでに七七日、四十九日掛かるとされているらしい。死んだのだけれどもあの世でどうなるか判らない中間的な状態なので、この四十九日間を「中陰*1」または「中有*2」と呼ぶ。
その間、残された家族は故人が少しでもあの世で良い方向に導かれるように念仏を唱えるのだが、残された家族には俗世界で生きていく必要があるので毎日、一日中49日間念仏を唱え続ける訳にはいかない。そこで7日毎に法要することになっている。
初七日から始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日に法要を行う。この間あの世ではいろいろな行事が行われている*3らしく、これによって故人のあの世での行く末が決められていくようだ。
最近は中間の二七日、三七日、四七日、六七日は殆ど行われずに初七日と三十五日もしくは四十九日の法要だけを行う。三十五日は故人が今後どうなるかを決定づける重要な日*4とされているので、中間であるにもかかわらず三十五日を特別扱いして、この日をもって忌明けとする場合が多い。更に初七日を葬儀の後、荼毘に伏した後*5、その日のうちに行ってしまうことも多くなってきた。
浄土真宗*6ではどんな人でも極楽で往生できる*7とされているのでこのような法要は必要ないような気がするが、それでは残された家族の気も済まないだろうし、寺院の方も困るだろう。
そもそもあの世で故人を審判するという閻魔大王は古代インド神話か道教の神であるし、浄土真宗では誰でも往生できるという最も重要な教義があるにもかかわらず、それに基づかない四十九日とか三十五日のような法要を行っている。更に即日の初七日のように民衆の要望に応えた形の省略された儀式まで行われている。宗教であろうと何であろうと常に権力や多数派に阿(おもね)るのは国民性なのだろうか。
*1 仏事の豆知識
*2 法要
*3 十仏王
*4 法事編
*5 平成10年度厚生科学研究「火葬場からのダイオキシン類排出抑制対策の検討」の結果報告について
*6 お経CD
*7 浄土真宗の教え
010615重水素*1というのは水素の同位体元素で核融合の材料になったり、水分子の水素原子と入れ替わって重水*2となり原子炉*3の減速材などに使われたりする。
重水素の由来は普通の水素よりも中性子が一つ余分に原子核に入っているので、質量数が大きいことから「重い水素」なのであろう。中性子が二つ入っている水素は質量数が三倍なので「三重水素」と呼ばれる。三重(みえ)*4水素ではない。
重水素は英語でdeuteriumと綴り、「ジューティリアム」と読む。語源は「deuter」+「ium」で前者はギリシャ語で「第2の」という意味、後者は元素を表す接尾辞である。「ium」はギリシャ語からのようだが、詳細はよく判らない。重水素の「じゅう」とdeuteriumの「deu」はうまく洒落になっている。もともとこれを狙っているのかも知れない。「複水素」「倍水素」でもいいはずである。
三重水素では巧く洒落にならなかった。英語ではtritiumなので全然合わない。tritiumの語源はdeuteriumと同じで「trit」はギリシャ語で「第3の」という意味である。
日本語は「水素」「重水素」「三重水素」と語源が判りやすくなっている。英語は「hydrogen」「deuterium」「tritium」で後の二つは水素の仲間だと言うことが判らなくなっている。「hydrogen」は「hydro」+「gen」で「水(ギリシャ語)の素(フランス語)」だから水素だと言うことが判る。
更に「重水」は「重水素で出来た水」、「比重が重い水」という意味に取ることが出来て重水素との関わりが見えてくる。だが、重水を英語にすると「heavy water」となり重水素との関わりが薄くなってしまっている。しかも「heavy」も「water」も生粋の英語だから語源の関連性の整合が崩れてしまっている。日本語の場合は「水(みず)」以外、全て漢語である。
「水素」「重水素」「三重水素」「水」「重水」は日本語の科学用語にしては珍しく整合性が取れている。
010616スターボウ*1は本当に見えるのだろうか。考えているうちに見えないような気がしてきたので調べてみた。
スターボウstarbowとは虹rainbow*2の宇宙版である。宇宙では雨が降らないので地上の虹と同じような原理で「虹」が見えるわけではない*3。宇宙船が光速度に近づくと窓から見える星々がドップラー効果によって虹色に変化して見えてくるのだという。救急車が自分に近づいてくるとサイレンの音が甲高く聞こえ、遠ざかると低く聞こえるのが音波のドップラー効果である。救急車がサイレンを鳴らしたまま止まっていて、自分が動いていても同じような現象が起きる。自分と救急車とが相対的に近づいていれば音は高くなり、遠ざかれば音は低くなる。光も波の一種なので音波と同じようにドップラー効果が起こる。
音が甲高く聞こえたり低く聞こえたりするのは音の波長が短くなったり長くなったりするからである。音波を少しのばしたバネと考える*13と判りやすいかも知れない。少しのばして出来た隙間の長さを音の波長とする。サイレンの音が聞こえると言うことはバネの一方が救急車、もう片方が自分に繋がっていることである。自分が救急車に近づけばバネは縮むので隙間が小さくなる。即ち波長が短くなる。波長が短いというのは音が「高い」ということである。逆に自分が救急車から遠ざかればバネは伸びるので音が「低く」なる。
救急車のサイレンの代わりに赤い回転灯を自分が見ているとする。光も波なので上の音波の例と同じで、自分が救急車に近づいていけば光の波長が短く見える。光の波長が短くなると言うことは色が変わることであり、波長が短くなると言うことは虹の赤から紫へと変化することである。従って近づく速度が速くなればなる程、赤い回転灯の色は紫に見えてくる、筈である。速度が徐々に上がっていけば回転灯の色は赤から橙、黄、緑、青、藍と変化する。
日常でもこれは起こっているのだが光の速度に対して我々の動きがあまりにも遅いので色の変化が全く判らないだけで、遙か遠くの星を細かく観測するとこのようなこと*4が起こっている。
宇宙船の速度が光の速度に近くなれば救急車の回転灯と同じことが星の光によって起きるはずで、これが虹に見えても不思議ではない、と思っていた。
ところがそうではない。調べてみると筆者と同じようにやはり見えないのではないか*5と考える人がいる。そして更によく考えると星も見えなくなるのではないか、と思えてきた。
何故、星が虹に見えないか。もともと星が光る原因は何か。星が光っているのは星が高温になっているからで、物質は温度を持つと電磁波を出す*6ことが知られている。物質の温度によって放出される電磁波の波長の分布が変化するのである。光も電磁波の一種なので光も出ている。同時に目には見えないが、電波も出ているし赤外線も紫外線もX線も出ている。
星が白っぽく見える*7のは赤から紫までの色の光が全部混ざって眼に届くためである。星の表面温度が高くなると青い光が強くなるので青っぽく見え、温度が低いと赤く見える。これは電球のフィラメントでも同じことが起こっている。電球が暗い時はフィラメントがそれ程熱くないので橙色をしているが、電流を沢山流してやるとフィラメントが熱くなるので白っぽくなってくる。
赤から紫までの色の光が全部混ざった光を出す星に向かって行ったらどうなるだろう。赤は橙色に変化し、紫は波長の短い紫外線になるだろう。星に向かって行く前は赤から紫までの色が混ざって白く見えていたのが「橙から紫」迄に合成になるので色合いが変わりそうだ。更に速度が上がれな橙は青色になり星は青く見え出しそうである。
考えてみればもともと「赤」より波長が長い「赤外線」の波長も短くなり「赤」に見えてくるのだから、結局は混ざり具合はあまり変わらず白色のままであろう。ただ物質が温度を持つことによって放射する電磁波の波長の分布は物質の温度で決まるある波長を頂点として*8波長が長くなるに従って、その強度が小さくなってくる。つまりドップラー効果で波長が全体に短くなると青や紫の色の強度が常に高くなるので青っぽい白色になるのかも知れない。これで星が虹の色に変化しないことが判った。救急車の回転灯のように赤い光だけを出している星があれば、速度の上昇に従って色々な色*9に見えるだろう。
次に何故、星が見えなくなるか。宇宙船が光の速度にどんどん近づくと周りの景色が進行方向に集まって見えてくる*10。例えば宇宙船の外で止まっている人から見るとある角度をなして向かってくる光は、宇宙船に乗っている自分から見るとその「ある角度」よりも進行方向に傾いた角度をなして降り注いでくる。これは丁度、しとしと降る雨の中を走りながら傘を差している時と同じである。立ち止まっている時は雨は真上から降ってくるので傘を垂直に立てているが、自分が走り出せば傘を斜め前に傾ける。雨が前斜めから降ってくるからである。これと同じことが光線でも起こる。
宇宙船から見える景色は進行方向に集まった星*11だけが輝くものになる。宇宙船の速度が光の速度に限りなく近づけば星は一点に集まってくるだろう。すると集まった星で非常に明るくなるのだが、ドップラー効果によって今まで目で見えた光はどんどん目に見えない紫外線やX線になってしまう。次々に赤外線や電波が「赤色」に見えてくるのだが、これらは波長が長くなるとその強度が弱くなることは上で述べた。
宇宙の星の数は有限*12なので全ての星が前面に集中して、そこから出る光の波長がどんどん短くなれば、目に見える光の強度はどんどん弱くなる。最後には肉眼では感じられなくなるぐらい弱くなってしまうだろう。
以上からスターボウだけではなく星も見えなくなる。
*1 スターボー
*2 虹
*3 虹の内側
*4 膨張宇宙の発見
*5 星の虹、幻の虹
*6 黒体輻射
*7 Environment Lighting: CIE Black Body Curve
*8 ウィーンの変位則ハWien'sハdisplacementハlaw
*9 http://www.anu.edu.au/Physics/Searle/HWdopple.jpg
*10 VISUALIZING SPECIAL RELATIVITY
*11 Appearance of stars from a relativistic spaceship
*12 銀河系
*13 010616にリンク追加
010617昨日の記事*1で後から思うと気になるところが出てきた。
ドップラー効果*2の説明で少し伸びたバネの隙間を使って説明したが、これは適切ではないような気がしてきた。
ドップラー効果*3は音とその音を聴く観測者、または音源と音との相対速度の関係によって発現する現象である。バネで説明すると音源と観測者との位置関係で波長が決まってしまうことになり、ドップラー効果の説明にならない。つまり観測者と音源との距離が縮まればバネは縮まることになり音が高く聞こえることになってしまう。実際にそんなことは起こらない。音源または観測者が「音」に対して運動していなければドップラー効果は起きない。
「波」というのはもともと実体がないので「音」に対する運動というのはどういうことなのか判りにくい。ここで実体がないとはそのものだけを純粋に取り出すことが出来ないという意味である。音というのは空気の振動で、空気の何が振動しているかというと、空気の密度が局所的に周期的に薄くなったり濃くなったりしているのである。空気のある部分の密度が変化するとその周りの空気もそれに引きずられる様にして密度が変化する。変化すると元の密度に戻ろうする。これが次々と四方八方に伝搬し、最終的にこの振動が耳の奥の鼓膜に到達し鼓膜を振動させる。その振動を脳は「音」と認識するのである。「空気の振動」は存在するが、空気の振動を感じる器官が人間になければ「音」は存在しない。
空気の温度が一定ならば、この空気の振動の伝わり方はいつも同じである。絶対温度*4の平方根に比例して伝わり方が速くなり、気圧にはあまり関係がないらしい。
まず観測者が「音」に向かって運動している場合を考える。空気の密度の濃い薄いの伝わり方は一定なのだが、空気全体が止まった中で運動する鼓膜が密度の濃い薄いに対応して動くので、その繰り返しが実際よりも速くなって鼓膜に伝わる。例えば空気の密度の濃い薄いが10秒間隔で繰り返されているとする。鼓膜が止まっていれば、鼓膜は10秒間隔で振動するが、鼓膜が音に向かって音の速度の半分の速さで動いたとすると、空気の密度の濃い薄いの繰り返しが10秒間隔で鼓膜に到達するよりも先に鼓膜がどんどん「濃い薄いの部分」に向かっていくので、鼓膜は半分の5秒間隔で振動することになる。鼓膜の運動方向が逆ならば20秒間隔になる。音の速さと鼓膜の運動する速さが近づけば近づく程、振動が速くなる。これがドップラー効果である。空気の密度の濃い薄いの伝わる速さを濃い薄いの周期で割り算したものを「波長」という。波長を濃い薄いの間隔の長さと捉えれば、音の方に向かって運動すれば、波長が短くなる。逆ならば長くなる。
次に音源が運動している場合を考える。音源は振動を10秒間隔で繰り返しているつもりでも、空気全体は止まっているので、空気に伝わる密度の濃い薄いの間隔は進行方向では短くなり、反対方向では長くなる*5。
ここで重要なのはドップラー効果の原因は音源と観測者との相対的な位置や速度ではなく、「音」の速度と観測者の速度との差と言うことである。これがバネの説明が適切でない最も大きな原因である。救急車のサイレンが聞こえる前に既に救急車がサイレンのスイッチを切っていてもドップラー効果は起こる。これは星の光でも同じことで、何万光年の彼方にある星から来た光が眼に届いた頃にはその星は消失しているかも知れないが、観測者が運動していればドップラー効果*6は起こる筈である。
それにしても音の場合は空気という音を伝える「物」があるから解りやすいが、光には伝える「物*7」はないとされているのでドップラー効果が解りにくい。
それに自分が運動しているかいないかに関わらず、自分が観測する「光速は一定*8」と定義されているので、もし、この宇宙に自分と「光」だけしかなかったら光との速度の差が分からない。どのようにして光のドップラー効果が起こると説明すればいいのであろうか。本当に光のドップラー効果を自分の目で確かめることが出来るのか。
*1 スターボウ
*2 ドップラー効果とは
*3 The Doppler Effect and Sonic Booms
*4 温度の単位(2)
*5 DOPPLER EFFECT
*6 高校生のための特殊相対性理論 [光のドップラー効果]
*7 Electromagnetism and Relativity(電磁気学と相対性)
*8 光の速度
010618知人と話をしていて光学式マウス*1はどういう仕組みか、と言う話になった。
発光ダイオード*2とフォトダイオード*3とが組み合わされて出来ているのだろう、と漠然と思っていた。発光ダイオードから出た光がマウスパッドなどに反射してフォトダイオードでその光の強さを測定する。マウスパッドの表面は均一ではないからマウスを少しでも動かせば反射する光の量が変化するので、これでマウスが動いたかどうかが分かる筈である。
だから鏡の上でマウスを動かしてもコンピュータの画面上の矢印*4は動かないはずだ、と言うことになり、早速実験をしてみると全く動かない。
やはり思った通りの仕組みだと納得しかけたのだが、フォトダイオード一個ではマウスがどっちに動いたのか分からないのではないか、という疑問が湧いてきた。
光学式マウスを分解してみると受光部分には何やらフォトダイオードではないような電子部品*5が付いている。インターネットで調べてみると感光素子が格子状に並んだ物*6のようだ。丁度デジタルカメラの心臓部であるCCD*7のようなものである。ただし画素数*8はもの凄く少ない。製造費用を低減するためにCCDではなくCMOSイメージセンサ*9を使っているようだ。
原理*10は簡単で、CMOSイメージセンサで捉えたマウスパッドの映像がどちらに動いたかを見ているのである。
*1 Microsoft Mouse - IntelliMouse Explorer
*2 センサについて ●発光素子
*3 センサについて ●受光素子
*4 Susan Kare User Interface Graphic Design
*5 http://www.microsoft.com/products/hardware/library/images/mouse/ explained_sensor.jpg
*6 光学式トラックボールの動作原理
*7 CCDとBBD
*8 スーパー CCDハニカム
*9 半導体フィルム
*10 Microsoft Mouse - Intellimouse with IntelliEye
010619今頃の季節になるとこちらの地方*1では田植えが一段落している。田圃には常に水が入っているので色々な生物がそこをすみかとする。
去年の今頃初めてカブトエビを発見した田圃*2に家族でぞろぞろと行ってみた。ついでに付近の田圃の生物を観察していたら、いろいろなものがいた。
オタマジャクシや小さな魚や最近はめっきり減ってきた普通のタニシ*3がいた。ここ数年で爆発的に増えたジャンボタニシ*4は沢山いた。小さな魚を捕まえてよく見るとナマズ*5の稚魚だった。一人前にひげが生えている。
そして今年も発見があった。カイエビ*6を見つけた。図鑑などでは見たことがあったが、実物を初めて見た。カイエビ*7は二枚貝のような甲羅を持ったエビのような生き物である。大きさは3mm程度だった。
*1 一宮市ホームページ
*2 カブトエビ
*3 群馬県立自然史博物館 収蔵庫を探る 無セキツイ動物 巻き貝類 タニシ・カワニナの仲間
*4 ジャンボタニシの野生化
*5 農林水産省 ナマズ Silurus asotus
*6 カイエビ:それいけくーまる/生き物の世界
*7 埼玉県立自然史博物館
010620相当昔に「少年倶楽部*1」という月刊雑誌の復刻版*2を読んだことがある。この少年倶楽部という雑誌は1914年に創刊*3され1962年に廃刊*4した。のらくろ*5、冒険ダン吉*6などのマンガや少年探偵団のような少年向けの連載小説、物知り知識などが豊富に掲載*7されていた。講談社*8が大日本雄弁会講談社と言われた時代に刊行されていた。
筆者が読んだのは戦前の数年間に刊行されたものの復刻版で、日本が戦争に突入して行くに従って内容も軍国主義に染まっていく様子がよく判る。
物知り知識のページが相当面白くて色々印象に残っている。水平一直線になった虹、四角い太陽、エジソン*9秘話など、もっと沢山あったと思うが、大分忘れてしまった。
その中にアメリカの新しい食べ物についての紹介があった。大きな見出しで「熱い犬」とあった。そして「ホットドッグ」とルビが振ってあった。当時、名前が珍しかったのか1ページか2ページを使って説明してあった。確か「『熱い犬』は移動式の屋台で売られているのだ」と西洋諸国の路上販売で見かけるような屋台の写真が掲載されていた。
こういう直截(ちょくせつ)的な翻訳はあまりよくないが、日本語に充分翻訳可能な言葉をそのまま片仮名で表記する最近の風潮も情けないような気がする。
*1 少年倶楽部
*2 少年倶楽部 復刻版セット
*3 講談社の歴史
*4 大衆少年雑誌の成立と展開
*5 田河水泡・のらくろ館
*6 アニメ 《冒険ダン吉 島のオリンピック》
*7 少年倶楽部文庫一覧
*8 K O D A N S H A . C O . J P
*9 Thomas A. Edison Papers
010621かなり昔、「氷山のごとく*1」というテレビジョンのドラマがあった。名古屋の商人の話で主演は志垣太郎*2であった。
このドラマの中で名古屋の商習慣について色々紹介されていたと思うが、殆ど記憶にない。ただ一つ憶えているのは挨拶である。店にはいる時「毎度」と声を掛ける。これは普通である。これに対して店の人は「どうあい」と答えるのだそうだ。ドラマの時代は大正から昭和初期だったと思う。当時はこのような挨拶が名古屋商人の間で交わされていたらしい。「どうあい」とは確か「どうぞ、いらっしゃい」が縮まったものと解説されていた。今の時代に実際に使われているかどうか判らなかった。
学生時代に菓子の問屋への配送アルバイトをやったことがあった。先輩に問屋に行ったら必ず「毎度」と挨拶しろ、と言われていた。名古屋独特の商人挨拶「どうあい」が聞けると期待しながら行く先々で「毎度」と声を掛けたが、「どうあい」と言う返事はなかった。
そしてついに「どうあい」という返事が返ってきたことがあった。問屋の主人は「毎度」の挨拶に対して確かに「どうあい」と低い声で言った。見るからに頑固そうな主人で菓子の段ボール箱の置き方が少しでもずれていると無茶苦茶怒られそうな感じだったので、いつもよりも丁寧に箱を並べたような気がする。話をしてみるとそれ程でもなかった。
それ以降、「どうあい」を聞いたことがない。
*1 花登筐テレビ作品
*2 志垣 太郎(しがき たろう)
010622小学生の頃、習字の時間で6文字の平仮名を書く、というのがあった。先生にどんな言葉でもいいから好きな言葉を考えて書きなさいと言われ、皆、四苦八苦して書いていた。
小学生の語彙はそれ程多くないのでぴったり6文字というのはなかなか思い浮かばない。「うんどうかい」「てんらんかい」「どうぶつえん」と大人になっても今すぐには沢山出てこない。
級友の一人が「先生、うまく書けません」と言いながら、先生に見せるために平仮名6文字が書かれた半紙を高々と掲げた。
そこに書かれていた言葉は当時の人気ドラマの題名*1であった。
「にほんちんぼ*2」
*1 日本沈没 TELEVISION SERIES
*2 天下の奇祭
010623どんどん良くなる法華の太鼓。この言葉を初めて聞いた時「ほっけ*1の太鼓」だと思い、魚の太鼓とは一体どんなものだ、想像を逞しくしていた。
「どんどん良くなる法華の太鼓*2」は「ドンドンとよく鳴る」からだろうが、太鼓はどんなものでも大抵は良くなるので、語呂の良さ、日蓮宗*3で打ち鳴らす様子の凄まじさからこの言葉が出来たのであろう。
これは「どんどん良く成る」と「ドンドンよく鳴る」とを洒落ているのである。それが変化して「段々よくなる法華の太鼓」という人もいるが、太鼓は「ダンダン」とは鳴らないので、これは語源を無視した用法だろう。
そういえば「ほらふきドンドン*4」という寺の和尚が主人公のジョージ秋山*5のマンガがあった。
*1 愛鶏会 ホッケ
*2 団扇太鼓
*3 日蓮宗
*4 ほらふきドンドン
*5 ジョージ秋山公式サイト
010624漢字の基本は直線である。漢字が発生した当初は様々な曲線を使ったものがあったかも知れないが、時代とともに曲線を多用する漢字は淘汰され、または直線に置き換えられ、楷書であれば基本的に全てが直線で構成される形になってきたと思われる。
楷書で曲線が使われるのは部分的である。「七」「也」「辺」など角張らずに曲げて書く部分がある。しかし「〆」「○」「ぬ」「Q」のように閉じた曲線を持つ漢字はない。
ところが見つけたのである。これである。
こんな楷書があってもいいのか、と感激してしまった。「官」の古字である。古字とは「説文解字*2」に「古文」と記されている文字のことである。総画数は四画とされているようだ。あのくるんとなった部分は一画として数えられている。この漢字は「漢字異体字典*3」で見つけた。確認したら漢字5万字ポスター*4にも載っていた。
ついでにこんなのも見つけた。
何と読むのか判らない。ポスターには読みが記載されていないのである。
よく見ると「卍」ではない。
何かのマーク*5みたいである。
点が多い。
最初の漢字を見て思い出したのはワイエルシュトラスのぺー関数*6である。どういった関数かよく判らないが、記号*7があの漢字の雰囲気によく似ている。しかも名前が「ぺー*8」。思い出さずにはいられない。
*1 拡大図
*2 文字と書体の豆知識《雑学編》
*3 日外アソシエーツ編集部〔編〕
*4 漢字ポスター
*5 杉本美術館
*6 WeierstrassP - The Weierstrass P function in Mathematica
*7 P-function
*8 林家ペー・パー子(はやしやぺー・ぱーこ) 「ペー」は片仮名でないと検索できない
010625固体などに応力をかけて変形や破壊させた時に、割れ目などから電子が放出される現象がある。これは金属の疲労*1を検出する方法*2の一つとして応用される。
この現象は金属だけではなく花崗岩でも起こる*3らしい。地震などで花崗岩が変形したりすると多くの電子が空気中に放出され、空気の分子がその電子によって電離して発光するのではないかと考えられている。これは地震の発光現象*4として知られている。
気体が電子によって発光するのは、気体分子を構成する原子の中の電子が他から飛んできた電子の衝突によって原子の中の電子の軌道が変化して、それが元に戻る時に光が出てくる*5。
固体にかかる応力によって発生する電子はそれ程勢いよく飛び出してくるわけではない。針金や鉄板を曲げたくらいで、曲げた付近がボーっと光を放たないのはそのためである。電子は放出されるが、空気は光らない。それが地震になると光るのだから相当多量な電子が放出されるのだろう。沢山放出されれば中には勢いよく飛び出るものも出てくる。それが空気を光らせるのかもしれない。
この応力で発生する電子をエキソ電子exo-electronという。exoとはエキゾチックexoticのエキゾと同じで「外部の」という意味である。
ついでにフランスにエグゾセ*6という名前のミサイルがある。exocetとはフランス語で「トビウオ*7」という意味だ。やはり「海の外に飛んで出る魚」だから、この場合の「exo」も同源と考えられる。
*1 金属疲労
*2 金属表面絶縁性薄膜に対する放射線応答特性
*3 フィージビリティスタディ 破壊プロセスにおける原子分子素過程と破壊前駆現象に関する研究
*4 静岡新聞/東海地震
*5 TDK Science Museum: オーロラの謎解き
*6 Weapons Exocet
*7 トビウオは「島根県の魚」に指定されている
010626日本自動車連盟*1が発行する雑誌*2を読んでいたら「ロバのパン屋」について書かれた記事を見つけた。
ロバパンは今も健在で、さすがに今はロバで店舗を移動させることはなくなって、かわりに軽自動車や自転車で売り歩いているようである。記事によれば本当はロバではなく*3木曽馬*4だったらしい。
この昔懐かしいロバパンにも先端技術の波は押し寄せている。ロバの馬車から軽自動車への発達だけではなく、インターネットでサイトまでも公開*5している。最初のページの「ロバのパン」の登録商標の画像は印刷物をスキャナでささっと取り込んだだけのようである。何も画像加工していないのがなんとも小気味よい。紙の皺なんか気にしていない。ハイテクの中に懐かしさあり、と言った具合である。
これで初めて知ったのはロバパンが株式会社であると言うことである。こういう懐かしいところは細々とやっている感じがする有限会社*6や合資会社*7の方が合っているような気がする。
ロバパンの正式名称は「株式会社ビタミンパン連鎖店本部」である。ロバパンではなくビタミンパンというのが意外だったが、もっと意外なのは「連鎖店本部」である。連鎖店というのは今風に言えばチェーン店である。これはこれでいい。「本部」が問題である。会社の商号の中に会社組織の部門名を入れると登記できない*8。普通「本部」と言えば部門名であろう。登記の時、問題が出なかったのだろうか。調べてみる*9と他にも「本部」付きの株式会社*10があった。しかし「支部」付き*11はなかった。「本部」は部門名ではないのだろうか。
*1 JAPAN AUTOMOBILE FEDERATION
*2 eJAFMATE
*3 「ロバのパン」って、どこかで聞いたことあるんだけどな〜?
*4 木曽馬の部屋
*5 ロバのパン 公式ホームページ
*6 おもしろバーチャルカンパニー (有)さるやまハゲの助
*7 (資)後藤酒造店
*8 商号の決め方
*9 Google
*10 東海地域スパー本部株式会社のホームページ
*11 Google検索:支部株式会社
010627筆者が今乗っている自動車*1を末長く使おうとしている理由は動かないわけでもないのに買い替えるのは勿体ない、と言う理由の他に大きな野望があった。
それは自分の自動車とともにある雑誌に掲載されようと本気に考えていたのである。そのある雑誌とは二玄社*2の自動車雑誌NAVI*3である。このNAVIの連載記事の一つに「10年10万キロ*4」というのがあり、ここでは同じ車を長年乗り続けた人を車とともに紹介していた。出てくる人は一般の読者で、同じ車を長年にわたって丁寧に乗っている車好きである。
必ずしも10年で10万キロである必要はなく、5年で20万キロ乗り回している人や20年で5万キロぐらいしか乗っていない人もいたような気がする。とにかく自分が乗っている自動車に愛着を持って乗り続ける人々の物語を紹介する記事であった。記事は2ページで最初の頃はカラーだったが数年前からモノクロページに格下げされた気がした。
ここ数年殆どNAVIを立ち読みしたり買ったりしていなかった。もうそろそろ今の自動車を買って10年になるのでそろそろNAVIへの参加申し込みの準備をせねばなるまいと思い、書店で今月号を手にとって最近の「10年10万キロ」はどんな自動車が出ているのかを見てみた。
ところが件の記事がない。いつも掲載されていた大体の場所にない。目次を見てもやはりない。どうやら連載は終了したようである。本懐を遂げることが出来なくなってしまった。
仕方がないのでNAVIに投稿するために撮っておいた写真を公開する。積算走行距離10万キロを達成した時のメーターの写真*5である。この時、購入後6年半であった。
*1 窓の修理
*2 二玄社のホームページにようこそ
*3 web CG bookstore | バックナンバー
*4 10年10万キロストーリー3 著者: 金子浩久
*5 丁度10万キロになるまで近所で乗り回して撮影した
010628記号の「〜」を日本語で何というか。波形記号*1と言うらしい。日本語の文章ではあまり使わないので、「句読点」や「かぎ括弧」などという用語に比べて「波形記号」という名称は定着していない。ワープロでは「から」「ないし」で変換できる。
最近はパソコンやワープロがよく使われるようになり日本語の文章の中に英語でよく使う記号が多く使われ出した。「@」などはインターネットが普及する前は一般の人々は殆ど使わなかった記号である。それにこの記号が「アットマーク」という名称であることも全然知られてなかった。それまではこれを読む時は「一個当たり」などと読んで、記号のそのものの名称を言う機会は殆どなかっただろう。数学の偏微分の記号「∂」も正式な名称はよく判らず「ラウンド」とか「ディー」と読んでいるようなものだ。
サイトのURLを口頭で伝える時、その中に「~」があると非常に面倒である。「なみ」「にょろ」と言ったりする。色々調べてみるとこの記号を「チルダ」と言うことがあるらしい。「chilled(冷凍した)」に「-er」が付いているなんてどういう意味だろう、線が冷たくて縮み上がっているのが「~」なのか、と思っていた。
綴りは「tilde*2」でスペイン語やポルトガル語などで「ニャ、ニョ」と発音したり鼻母音化する時に用いる記号の名前だった。元々はスペイン語のようだ。「chilleder」と勝手に考えるのは「滞(とどこお)る」を「トド(海の獣)凍る*3」と想像しているようなものだった。
「スワングダッシュswung dash」とも言うようである。「揺れたダッシュ」ならば憶えやすい。ただ、「チルダ」よりも長いので言い難い。
*1 Japanese-Spanish Ocean Dictionary
*2 Spanish (The Languages of the World by Computer)
*3 確かビックリハウスの投稿記事でこんなのがあった
010629光とは何か。光とは太陽、星、電灯、ホタルなどから発せられて目に明るく感じられるもの、と新明解国語辞典*1にはあった。web上の辞書*2でも大体同じようなことが書いてある。
光とは目で感じることであって、光という物理現象自体を指しているわけではない。少なくとも一般の人々にとってはそうである。「光は電磁波の一種である*3」という言い方は電磁波の種類を説明しているだけで、「目で検知することが出来る電磁波」という意味である。
目が見えない人にとって光は存在しない。「目で検知することが出来る電磁波」はその人の周りにあふれているが、それが見えないから「光」はない。一方、光を見た時と同じ刺激を脳に何らかの方法で直接与えれば「光」が見えるだろう。「光」は現実のものではなく「感覚」として捉えた方が本質が見えてきそうだ。
上の考え方からすれば、「見えない光」というのはない。見えなければ光ではないからである。こうすれば電磁波をその波長で分類した時、光とその他の電磁波との境界線*4を明確に引くことが出来る。従って赤外線も紫外線も「光」とは言えない。赤外光、紫外光という言葉は厳密さを欠く。
テラヘルツ光*5という言葉がある。電波と光の境界領域にある光*6のことをその周波数から名付けられた。「テラ*7」とは10の12乗を表し、「ヘルツ」は周波数の単位である。このテラヘルツ光を発するには自由電子レーザ*8という巨大な装置が必要であったが、最近、机に乗るぐらいの大きさの装置*9でテラヘルツ光を発振させられるようになったらしい。
テラヘルツ光はプラスチックや紙、歯、骨、乾燥食品などを透過することから、被曝の心配があるX線に代わるものと期待*10されている。
この新しい電磁波の名前を付ける時にもう少し配慮が欲しかった。「テラヘルツ線」「テラヘルツ波」とすれば光なのか電波なのか悩まなくても済む。
*1 SANSEIDO Co.,Ltd.新明解国語辞典
*2 便利ツール[国語辞典] 検索語句:光
*3 光について考える
*4 光とは
*5 テラヘルツ技術のご案内
*6 量子半導体構造におけるテラヘルツ・ダイナミクス
*7 国際単位系(SI)
*8 iFEL, Osaka University / 大阪大学 自由電子レーザー研究施設
*9 卓上型波長可変テラヘルツ光源を開発
*10 か・ら・だ / け・あ
010630「時計仕掛けのオレンジ A Clockwork Orage*1」というスタンリー・キューブリック*2の映画がある。この映画の音楽はウェンディ・カーロス Webdy Carlos*3が担当した。当時、彼女は性転換する前で*4、Walter Carlosと名乗っていた。
映画の主人公はベートーベンが大好きだったので、映画の中で使われている曲はベートーベン*5の第9交響曲をシンセサイザーで演奏*6したものが主であった。ベートーベンの他にパーセル*7やロッシーニ*8の曲もあったが、ウェンディ・カーロス原作の曲も使われていた。
その中に、どういった場面で使われていたのかはっきり思い出せないのだが、「Country Lane」という題名の曲がある。曲の最後の方で雨の音が効果音として入れられ、一番最後には「雨に唄えば*9」の主題歌が組み合わされている。完全に「Country Rain」だと思っていたが、改めてこれらサウンドトラックを集めたCDをよく見ると「Country Lane(田舎道)」であった。
元プリンス*10 Princeの「Purple Rain*11」という曲を泉麻人*12が「Purple Lane」と勘違いしていたのを思い出した。
「lane」の意味をリーダーズ英和辞典*13 初版 第10刷で調べたら例文として
It is a log lane that has no turning. 曲がりのない路はない、いつまでも同じ状態が続くことはない「待てば甘露のひよりあり」
とあった。「待てば甘露のひよりあり」とは一体何か。「甘露(かんろ)」は「海路(かいろ)」の間違いではないだろうか。しかしこんな間違いが発生するものだろうか。ワープロの変換間違いかも知れない。それにしても上の英語の諺と日本語の諺とが対応するとはとても言い難い。「待てば海路の日和有り」は物事はじっと待っていれば良くなる事もある、という意味だが、上の英文の場合は好転、悪化両方の意味になる。「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」の方が近い。
*1 時計仕掛けのオレンジ
*2 The Authorized Stanley Kubrick Web Site
*3 CD購入
*4 ウェンディ・カーロス[時計仕掛けのオレンジ関連]
*5 なかさんの「おんがく講座」上級編 ベートーヴェン勝手解説大全集
*6 Wendy Carlos, WC's CO Notes
*7 Henry Purcell
*8 Rossini Opera Festival
*9 Singin' In The Rain
*10 PRINCE作品紹介
*11 Prince's Musical Career
*12 [ASATOIZUM] 泉麻人先生紹介
*13 研究社 リーダーズ英和辞典 INDEX
あるきっかけで志賀直哉*1の「小僧の神様*2」という小説の結末部分を改めて知る機会があった。学生時代にこの短編小説を読んだきりで結末部分をすっかり忘れていた。憶えていたのは小僧が鮨を奢って貰った人を神様だと思った*3、という事だけでこの小説の構造などすっかり忘れていた。
全部読んでみた。読むのにかかったのは十数分間だったが、その時間は緻密に構成されたこの小説によって十分満たされたものとなった。こんな面白い小説なのに内容を忘れているというのはどうも解せない。もしかしたら一度も読んでなかったかも知れない。学生時代に現代国語の知識として志賀直哉の代表作の一つ、と記憶しただけだったのだろうか。
結末の部分が以下である。
作者は此処で筆を擱(お)くことにする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。――とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対して少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆(かくひつ)する事にした。
この小説の主な登場人物は主人公である秤屋の小僧仙吉、若い貴族院議員Aである。作者志賀直哉は仙吉、貴族院議員Aのそれぞれの視点でそれを交互に切り替えながら話を進行させていくが、このように最後には作者自身が作者自身の視点でその心境を語り、話を終えている。
志賀直哉が小僧に対して少し残酷な気になったのは、貴族院議員Aが小僧にとって神様、稲荷様であること決定付けてしまい永遠に小僧を騙すことになってしまうからだろうか。考えているうちにこの作者の心境を確実に読者に伝えるにはこの小説ではこの方法しかないと思えてきた。しかもこの小説はこの終わり方しかないようにも思えてきた。
小僧の行動、心境を全て観る事が出来るのは作者と読者だけである。そして行動を規定するのは作者志賀直哉だけである。
例えば作者が小説の最後で書いたように小僧が稲荷の祠を見つけてびっくりしたと書いたとすれば、ある読者は作者と同じように小僧に対して残酷な気を催すかも知れない。しかしこれは確実ではない。話の展開の面白さは伝わる事は確実だが小僧に対する作者の感情が確実に伝わるかと言えばそうではない。ただ、一旦この結末を書いてしまうともうこの感情を確実に伝える事は不可能になる。小説はこれによって完結してしまい、作者が登場する機会は一切なくなる。
もし最後の部分を書かなかったらどうだったろう。読者の中には志賀直哉が書こうとした内容と同じような結末を想像するものがいるかも知れない。そしてそう考えれば小僧がかわいそうだ、と思うかも知れない。しかしそんな読者は一部なのでこれはこれで作者の意図を遍く十分に伝えきれない。
小説中には小僧に対する作者の心境を代弁できる登場人物はいない。小僧を客観的に観る事が出来る人物に貴族院議員Aがいるが、小僧が彼を神様だと思っている事をAは知る由がない。神様と思っている事を知っているのは作者と読者と小僧本人しかいない。従って小僧が気の毒である事を伝えたければどうしても作者の登場が必要である。
この最後の部分を書く事には二つの効果がある。一つは上に書いた通りである。後一つは読者よりも作者が優位にあることを明確にすることである。読者の発想は自由なのでそれを小説の作者が制限をする事が出来ない。しかし作者が書いてしまえば書いてある内容に対して読者は受け入れるしかない。
志賀直哉は最後の部分を書く事によって、読者が想像する自由を取り上げてしまっている。もしかしたら志賀直哉は読者が小僧が稲荷の祠を見つけてびっくりする場面を勝手に作って想像されるが口惜しかったのかも知れない。そうかと言ってはっきり結末を書けば単なるおとぎ話になってしまう。志賀直哉が作品としての美学を追究する上で考え出した最終的な形がこの作者の登場だったのであろう。
*1 白樺文学館 志賀直哉
*2 志賀直哉「小僧の神様」
*3 志賀直哉「小僧の神様」(近代小説千夜一夜-小埜裕二)
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