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雑記草商店
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0904雑記草
090402工夫されたスプレー缶がある。何が工夫されているかと言うと少しでも無駄がない様に工夫されている。整髪剤などの化粧品のスプレーには噴射ガスとして液化天然ガス(LPG)*1が使われている物がある。LPGは一定圧力以上になると常温で液体になるので缶の中の上方の隙間ではある一定の圧力*2のガス状態、残りは液体となって缶の中*3に入っている。
LPGは缶の中で一定の圧力になっているので、中の薬剤も一定の圧力で噴出してくる。
LPGよりも値段が安く反応し難いありふれた窒素を噴射ガスに使えば製造費用を下げる事ができるが、窒素ガスはLPGの様に室温では液化してくれない。-150℃位でないと液化しない*4。そうなるとスプレー缶の中では常に窒素は気体状態なので、窒素ガスの噴射量によって内圧が低下してしまう。使い始めの噴射の勢いと使い終わりの勢いとが大きく変わってしまうことになる。そこで何が起こるか。最後まで使える様にLPGの圧力よりも窒素の封入圧力を高くしておかなければならない。すると使い始めは、軽くボタンを押したつもりが勢い良く薬剤が出てきてしまうのである。しかも中の薬剤が減るに従って窒素も減って圧力も減るので、スプレー缶のボタンを押す時間がだんだん長くなる。これでは使い難くて仕方がない。
そこで噴射圧力を一定にする仕組みを持ったボタン付きのスプレー缶*5が開発されているらしい。これで噴射ガスに安価な窒素を用いてもLPGと同様に使用できるスプレー供給できるようになる。
*1 最近の災害事例等(エアゾール製品(スプレー缶)にご用心!)
*2 LPガスの情報
*3 花王 製品Q&A エアゾール製品には振って使うものや下向きにして使うものがあるのはなぜ?
*4 3-1-1 物質の三態
*5 スプレー缶のLCA
090403「オピソプロクタス*1」の写真を見つけた。「オピソプロクタス」とは深海魚の一つである。図鑑の挿絵*2を見るとどこまでが目なのかよく判らない。前回、記事にした時*1にも写真*3を見つけたが、目がどうなっているのかよく判らなかった。
オピソプロクタスの特徴は目である。英語名は「barreleye(樽目)」だし、日本語名も「出目似義須*4」だ。
これがその写真*5だ。頭部が薄い透明の膜の様になっていてその中に目がある。写真の解説に「戦闘機の操縦席」を思わせると書いてある。まさにその通りだ。
従来、見てきた図鑑の挿絵*2とは大きく雰囲気が異なる。この挿絵から水木しげる大先生*6の描くサラリーマン*7を連想していたが、この実物写真*8からはもう連想できなくなってしまった。写真を見て思ったのはこれ*9やこれ*10である。
*1 オピソプロクタス(2)
*2 Opsol_u1.jpg
*3 Norbert Wu: Deep Sea Life Images - DEP0020
*4 千葉県立中央博物館 デメニギス のなかま
*5 ニュース - 動物 - 透明な頭をもつ深海魚デメニギス(記事全文) - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
*6 水木自慢
*7 水木しげるの妖怪ワールド
*8 FIRST PHOTOS: Weird Fish With Transparent Head
*9 TSUBURAYA公式オンラインSHOP 【大怪獣シリーズ 分身宇宙人 ガッツ星人】
*10 Ancient Egypt: the Mythology - Horus
090404「純正なごやん*1」を改良した。「純正なごやん」とはweb上のあらゆるページを名古屋弁に翻訳するプログラムが動作するページ*2である。
perl*3と言う言語を使ってプログラムが作られている。他人が作った物である。基本的な動作は簡単で、用意してある標準語から名古屋弁に翻訳する辞書の最初の単語から順次にwebページの単語を変換していく。例えば、辞書に「久しぶり→やっとかめ*4」とあると、webページを全部見回して「久しぶり」という文字列があれば「やっとかめ*5」に置き換えてしまう。これを辞書に掲載されている単語全部について行う。
名古屋弁の特徴は「ア行+イ」を連続して発音する*6。「ない」が「にゃあ」、「かい」が「きゃあ」などである。外来語も当然、そのように発音される。「あかんて、車のリャート点けっぱなしだがや(いけませんね、自動車のライトが点けっぱなしです)」と言った具合である。ただし例外があって、「ア行+イ+ン」の場合は、連続では絶対に発音されない。「デザイン」「ナイン」「パイン」など「デズァーン」「ニャーン」「ピャーン」とはならない。
改良前は「デザイン」が「デズァーン」になってしまっていた*7。例外処理ができるようにプログラムを変更すればいいかもしれないが他人が作った物を変えるのは非常に厄介である。そこで辞書の工夫で対処する事にした。
「ズァーン→ザイン」を辞書に加えた。辞書の最初の方に「ザイ→ズァー」を配置しておく。一旦は変換されてしまうが、「ズァーン」となった単語だけは「ザイン」に戻す。従って最初から「ズァーン」を含む単語は「ザイン」にされてしまう。日本語にこう言った文字列は殆どないので誤変換の可能性は小さいだろう。
他に「入れる」も誤変換の原因だった。読み方は「いれる」「はいれる」の二通りがある。「いれる」は変更する必要はないが、「はいれる」は「ア行+イ」なので「ひぁーれる」にしなければならない。辞書に「入れる→ひぁーれる」と入れると「入(い)れる」にも拘らず「ひぁーれる」になってしまう。
そこで「〜を入れる」の場合は、必ず「いれる」と読むので、誤変換を戻すために「をひぁーれる→を入れる」を辞書に加えた。「〜に入れる」はどちらの場合もあり得るが、「にひぁーれる→に入れる」を入れてどちらの場合でも「に入れる」に戻す様にした。十分な翻訳にならないが、誤変換よりはましである。
それではお楽しみ下さい*1。
*1 なごや弁純正変換『純正なごやん』
*2 純正なごやん
*3 とほほのperl入門
*4 名古屋はええよやっとかめ
*5 名古屋はええよやっとかめ2004
*6 どえらい名古屋弁
*7 純正なごやん(3)
090405水族館*1に行くとイシガメやクサガメ*2が沢山いた。室内で飼われているので、今の時期の少々の寒さでも活発に動き回っていた。飼育槽は陸地の方が多くなっていたので、覗き込むと結構臭いがした。
よく見ると中の一匹のイシガメが盆の中の餌を一所懸命食べている*3ではないか。イシガメは陸上に頻繁に上がるが、沼ガメなので通常の摂食行動は水中である。
人工飼料など指で摘んで目の前に差し出すと水中でなくても食べるが、陸場に置いた餌を積極的に食べるのを見たことがなかった。リクガメが餌を食べる*4様にイシガメが盆の中の餌を食べる姿を見たのは初めてだった。
*1 豊川市役所公式ウェブサイト:赤塚山公園(ぎょぎょランド)
*2 _DSC0226.jpg
*3 _DSC0229.jpg
*4 リクガメ後編 リクガメ飼ってみました - [爬虫類・両生類]All About
090406名古屋弁変換*1で面白いと思われるサイトはここ*2である。日本語に関する質問に対して一所懸命解説をしているのだが、それが名古屋弁になってしまうのである。日本語には違いないが、相当違和感がある。特にこのページ*3を変換すると、質問も解説も双方間抜けになってしまっている。
それではお楽しみ下さい*4。
*1 純正なごやん(4)
*2 日本語Q&A:スペースアルク
*3 「おじんくさい」は濁らずに「なまぐさい」が濁るのはなぜ?
*4 なごや弁純正変換『純正なごやん』
090407太陽の活動は大体十一年周期*1である。これは黒点現象だけではなく様々な活動が十一年周期のようだ。この周期は十九世紀中期にドイツの薬剤師Schwabe*2が発見した。
この「十一年」という周期の由来は何であろう。何か意味があるのだろうか。太陽系の最大の惑星である木星*3の公転周期は11.86年*4で太陽周期に近い。これが何か関係していると言えるだろうか。これは考え難い。木星が太陽の周りを約十一年掛けて一周することと太陽の活動が十一年周期であることと何故関係するのか。太陽が自転していなければ、潮汐の関係で何らかの変化が出てくるかもしれないが、太陽は約三十日で自転*5している。殆ど関係ないだろう。
太陽エネルギーの根源は核融合*6である。核融合反応が十一年周期で変化するのだろうか。量子力学の世界*7で起こっている現象の集合体*8が十一年と言うとてつもなく長い時間でゆっくり周期的に変化するなどとても考えられない。他に何かありそうだ。
十一年の由来は太陽内部の磁場変化の周期*9らしい。十一年毎に磁界の向きが反転している。周期は元に戻るまでの時間なので磁場に関して言えば「二十二年周期」になっている。とは言っても、何故それが十一年、二十二年なのかよく判らない。判ってないのは筆者だけかもしれないが、少し調べただけではどこにも書いてなかった。もしかしたらこの周期の由来は他の天体の接近や衝突によるものではないかと勝手に考えてみた。何億年もの前に巨大な迷い星が太陽*10にぶつかったか大接近した結果、太陽自体が振動してそれが今も続いていると考えるのである。
実際に太陽の表面は振動している*11らしい。太陽表面では5分位の周期で振動*12しているようだ。これでは全然「十一年」と合わない。太陽の中心核*13がゆっくり振動していると考えればいいだろう。たまたま現在、十一年(二十二年)の周期で振動しているだけに違いない。
*1 国立科学博物館-宇宙の質問箱-太陽編
*2 The Open Door Web Site : History of Science and Technology : Samuel Heinrich Schwabe
*3 連星
*4 SPACE INFORMATION CENTER : 木星
*5 天体観察観測入門:太陽投影板を使った太陽観測(3)
*6 太陽系図鑑 太陽
*7 量子力学
*8 宇宙の科学2 9回目 2002.6.14.
*9 理科年表オフィシャルサイト/天文部:太陽黒点数の長周期変動 ( 17 世紀以来 ) の謎
*10 太陽の基礎知識
*11 太陽振動を捉える
*12 太陽表面の振動:太陽の唸り声
*13 太陽系図鑑 太陽
090408飯粒が付かない「しゃもじ」を使っている。昔のしゃもじはよく飯粒が付いていた。それを防ぐため水の入った器にしゃもじを浸けておく*1様なことがよくやられていた。民宿や大衆食堂などで飯を客が装う決まりになっている場合、こういう事を施している処があるが、家では面倒なのでやった事がなかった。しゃもじに付いた飯粒は茶碗の縁で削ぎ落とすのが普通だった。
二昔以上前に、飯粒が付かないしゃもじが家に登場した。確かそれぐらい昔だった。今までとは違い、殆ど飯粒が残らないのでびっくりした覚えがある。ただし、そのしゃもじには小さな凹みが沢山並んでいた。今の主流は小さな突起が沢山並んでいる方*2だろう。飯粒が付かない様にするには接触面積を減らせばいいので、飯粒の半分程度の凸凹周期があれば、接触面積が半分は減るだろう。従って凹みでも出っ張りでもでもいい。
永年のしゃもじの一つの問題はこれで解決された。しかしもう一つの大きな問題がある。それはしゃもじの置き場所である。水の入った容器にいちいち入れる様にすれば、置き場所には困らないが、そもそもそれが面倒なので飯粒の付かないしゃもじが発明されたのである。桶の中に入れておくと言う手もある。炊き立ての時はしゃもじが熱くなって不便だし、温度のかかる場所に樹脂製の物を入れておくと何か変な化学物質が滲み出してきそうで気分が悪い。
ある日、画期的なしゃもじを見つけた。電気炊飯器の上にちょいと載せる*3事ができる。そして炊飯器の上に置いてもご飯を載せるへらの部分が浮いた状態*4になる。現在使っているのはこれだ。これは非常に重宝している*5。
柄の尻で立てる方式のしゃもじ*6があるが、不安定で全く役に立たない。しかも置き場所を常に確保しなければならない。画期的なしゃもじの方は炊飯器の上に置けるので場所の確保が必要ない。自立水切りカップ*7と同様、改良の余地が殆ど残されていないと思われるしゃもじに改良を加えた今世紀最大の発明と言えるだろう。
*1 405-m.jpg
*2 【株式会社曙産業】マジックしゃもじ
*3 112513601_1.jpg
*4 幹事・二次会・プレゼント【備長炭入り ちょい置きしゃもじ】お お家でショッピング - Yahoo!ショッピング
*5 07-9-11-1.jpg
*6 ひとり立ちしゃもじ
*7 単純な構造における工夫
090409しゃもじは「杓文字*1」と書くらしい。しゃもじを調べているうち*2にもしかしたらそう書くのかも知れないと思っていたらそうだった。「〜文字」と付けるのは女房詞(ことば)*3と言われる。室町時代の初期に宮中に仕える女房たちが使い始めたらしい。直接に物事を言うのを避けた表現で「ひもじい*4」「ほの字」もその類いのようだ。
杓子にはいろいろな物がある。飯を掬う飯(めし)杓子、お玉杓子*5や貝杓子*6など。これらをまとめて「杓子」である。これらを「しゃもじ」と言っていた筈だが、飯杓子だけを指す様になった。いつからそうなったのか。明治時代の国語辞書「言海*7」に「飯杓子ニ同ジ」とある。少なくとも明治時代からは飯杓子だけを指す様になっていたようだ。
*1 杓文字(しゃもじ) - 語源由来辞典
*2 究極のしゃもじ
*3 にょうぼう-ことば 【女房 ▽ 詞】の意味 国語辞典 - goo辞書
*4 ひもじ 【ひ文字】の意味 国語辞典 - goo辞書
*5 ゲンゴロウ
*6 かいじゃくし 【貝 ▼ 杓子】の意味 国語辞典 - goo辞書
*7 博物館だより 11 現代の国語辞書の原点 『言海』と『大言海』 - 一関市役所
090410蛸の化石*1が出たらしい。日本ではない。海外の話。昔も今も蛸*2はどこにでもいるのだろうからどこで出てもおかしくないが、蛸の化石そのものは大変珍しい。
何故珍しいのか。化石*3は、古代の生物の死骸が砂や泥に埋もれて、それが地中で固められて出来上がる*4。死骸だけではなく、足跡*5や巣穴*6など地層に残された生活の痕跡も化石*7と言う。
考えてみると、生き物が死んで、海の底に沈んで、その上を砂や泥が覆って、それが何万年も土砂が重なり続けて、と言うのはあまりにも悠長である。クラゲ*8とか蛸など骨や骨格がない生き物は死んだら直ぐに跡形もなくなってしまう。従ってそういう生物の化石は、教科書や図鑑でよく見られる「化石のでき方*9」では絶対できない。
海の中で土砂崩れなどが起こって、生き埋めになって初めてできる筈だ。土砂崩れの下にたまたま蛸がいたので化石になったと考えればよい。蛸など今ではどこにでもいる*10。土砂の下敷きになる蛸はいくらでもいる筈だ。なのに化石が中々見つからない*11のは何故だろうか。もしかしたら昔はそんなに今程いなかったのかも知れない。
*1 PHOTO IN THE NEWS: Rare Octopus Fossil Found
*2 コウモリダコ
*3 化石のでき方、あらわれ方
*4 瑞浪市の化石
*5 FPDM: 標本データベース - 種類別リスト - 恐竜 - 足跡・生痕化石
*6 生痕化石
*7 生痕化石
*8 筆石
*9 B028_00.jpg
*10 第17節 いか・たこ漁業
*11 ニュース - 古代の世界 - 非常に珍しいタコの化石を発見(記事全文) - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
090411中学の頃、米兵を撃った事があると言われ恐れられてていた技術家庭科の先生*1が「鉄筋コンクリート製のビルは何年保つか判らない」と言っていた。最初の鉄筋コンクリート製のビルが出来てからまだ百年も経っていないのだから、百年以上保つかどうか判らないと言っていた。それを聞いて、ある日突然ビルが崩れ出したらどうしようと一瞬怖くなったが、大して心配はしなかった。その内そんな事はすっかり忘れてしまった。
そう言えば「コンクリート*2」と「セメント*3」との違いをはっきり認識していなかった様な気がする。改めて調べてみると、セメントとはコンクリートを作るための材料で、コンクリートはセメントと砂と砂利などとを混ぜてこねた土木建築用材である。ついでにモルタル*4はセメントと砂とを混ぜたものだ。
セメントを発明したのはJoseph Aspdin*5というイギリス人らしい。1824年に特許を取った。確かにセメントが発明されて二百年も経っていないのだから心許ないと言えば言えない事もない。日本で一番古い鉄筋コンクリート製のビルが横浜にある*6らしい。建てられてから百年近く経っている。今も使用されているので、鉄筋コンクリートは百年位は軽く保ちそうだ*7。
*1 豆盆栽
*2 コンクリートとは
*3 セメントとは
*4 モルタル - [住宅用語集]All About
*5 Cement & Concrete Basics: History and Manufacture of Portland Cement | Portland Cement Association (PCA)
*6 グリフィンシリーズ陽光都市開発 ? 横浜資料館
*7 節電ナツメ球(6)
090412宇宙人*1は数学が理解できるのか。以前にそんなことを話題にした記事*2を書いた事がある。地球以外に住む生物が三角関数とか、微分積分とかトポロジーという概念を持ち得ないのではないか、と書いた。何故なら数や数学は純粋に思考の世界だけで扱われるもので、手で触ったり何らかの形で呈示できるものではないからである。
三角関数のように複雑な物のみならず、加減乗除、更には自然数、そして「数」そのもの概念も発生していない可能性がある。いや可能性と言うよりもそのような可能性は一切ないと言い切れそうな気がする。地球上の生物で「数」の概念を持っているのは恐らく人類だけだろう。地球上でさえそうなのだから、宇宙人*3に「数」の概念などある筈がない。
「数*4」がなくても高度な文明が築けるのか。高度な文明を築くための科学技術と数学との間には必然性はないだろう。例えばテレビジョン受像機*5は数や数学がないと発明できなかったか。トランジスタ*6は数がなければ発明されなかったか。「数」や「数学」の概念があるために発明に至るきっかけを得るまでの時間や最初の思いつきを発展させる時間が飛躍的に短縮できたかもしれないが、「数」や「数学」がなければならないということはないだろう。「数」がなければ、何も発達しないとは言い切れない。人類最初の道具の出現と「数」の概念の萌芽とではどちらが先か。「2001年宇宙の旅*7」を観る限り、道具が先*8だ。
唯一「数」が関与しなければ、あり得なかったものがある。計算機だ*9。数による思考を代行する機械だから当たり前である。人類に数の概念がなければ算盤*10も発明されなかった。
ということは、宇宙人はコンピュータを持っていないことになる。
*1 2006uchujin.gif
*2 整数に近い無理数
*3 lildude.jpg
*4 数とは何か
*5 テレビジョン受像機の水洗い(7)
*6 トランジスタの発明
*7 2001: A Space Odyssey (1968)
*8 ape.jpg
*9 古代のコンピュータ
*10 機械式計算機
090413昨日、亀の寝床である水苔*1を水槽から外した。全員無事である。去年、近所の亀好きのご夫人から頂いた幼亀二匹も元気だ。この二匹は夫人の旦那さんが朝の犬の散歩をしていた時に道端で拾ってきた亀である。
亀の冬眠あけは、六年前は四月二十三日*2、五年前は四月十日*3、四年前は四月十五日*4、三年前は四月七日*5、一昨年は四月八日*6、昨年は四月十三日*7だった。
*1 亀の冬眠の準備(2)
*2 亀の冬眠明け
*3 亀の冬眠明け(2)
*4 亀の冬眠明け(3)
*5 亀の冬眠明け(4)
*6 亀の冬眠明け(6)
*7 亀の冬眠明け(7)
090414女性などが「私は運転が下手だから」と言う事がある。男性はそういうことをあまり言わない。運転が下手と表明するのは男として格好のいい事ではないと思われているからだ。やはり自動車の運転は男性的な作業なのだろう。
「運転が上手」とはどういう状態の事を言うのだろう。駐車場に後ろ向きで真っ直ぐに一発で入れられる事であろうか。縦列駐車*1が切り返しなしで出来る事だろうか。側溝脇1cmの所まで寄せる事が出来るのだろうか。車線変更がどんな場合でも自由自在にできる事だろうか。
「運転が下手」とはどういう状態か。この映像*2の様な状態を指すのだろうか。車体をそこかしこにぶつけまくる運転を指すのか。それとも上記の様な運転が出来ない状態を指すのだろうか。
自動車運転に於いて、ちょっとした事で気が動転してしまい間違った操作をしてしまうのは、自動車運転の適正が欠けているのであって、下手云々の問題ではない。下手とは上手くない事なので「上手な運転」ができないことである。間違った運転操作をする事ではない。車体のそこら中を擦ったりぶつけたりするのは、車体に関しての慎重さが足りない状態であって、道路を通行するに当たってまともであれば問題はない。これも下手と言うより自動車に対する愛着の度合いが男性よりも低いだけのことである。自動車を傷だらけにして平気でも、高級バッグや宝石類には神経を尖らせるに違いない。
自動車を運転するに当たって、上記に書いた様な「運転が上手」である必要は殆どないだろう。自動車を運転する究極の目的は安全に乗員や荷物を移動させる事である。安全であれば少々時間が余分にかかっても問題はない。駐車場で何度も切り返して停めても一向に構わない。自動車を運転していると言う事は、移動において相当時間を短縮している筈なのである。駐車場で自分がもたついて後続車を30秒程度待たせても、後続車の運転手はその運転によってその何十倍もの時間を既に得ているのである。そんなことで怒るのは了見が狭過ぎる。ほっとけば良い。
男性は「運転が上手」でないと非常に格好悪く感じてしまう。特に女性を乗せている時、駐車場で一発で素早く入れられれば少し鼻が高いし、逆の場合は「この車は後ろが見難い構造なんだよ」と同乗している女性に聞こえる声でぶつぶつと独り言などを言ったりする。
しかし「私は運転が下手だから」とわざわざ言う女性はこれを勘違いしている。男性は女性と交合したい一心*3で自分の運動能力、身体機能の優位性を誇示する。本能だから仕方がない。自動車の運転が上手というのも運動能力の一部なのだから、劣っていることは女性に悟られたくない。ところが「自分は運転が下手」と言う女性はそれを勘違いして、上記の様な技能を「道路で自動車を操作する上で必要な技能」と思っているのである。それは違う。何度も主張しているが、道路交通法*4を守る事が一番重要であって、運行する上でそれ以外の事柄を気にするとむしろ危険*5になってくるのである。
*1 Honda | 安全運転普及活動 運転アドバイス(四輪編)/縦列駐車
*2 YouTube - women / female driver compilation
*3 レオナルド・ダ・ビンチの断面図
*4 道路交通法
*5 運転走行中の挨拶
090415奴凧*1の奴(やっこ)とは何者か。
大名行列の先頭で踊ったり荷物を持ったりする役目*2の人、と言った漠然とした印象しかなかった。そもそも何のためにいたのか。気になったので調べた。
奴とは、近世、武家の奴僕のことで、撥鬢(ばちびん)頭・鎌髭(かまひげ)の姿で、日常の雑用の他、槍・挟み箱などを持って行列の供先を勤めた。中間(ちゆうげん)*3とも呼ばれた。
語源は「家之子(やつこ)」が変化したものらしい。家之子とは主君に使える人*4とか奴隷のことである。「臣」とも書く。「やつこ」の「つ」は、「まつげ(目つ毛→目にある毛)」「おとつい(をとつひ→遠つ日→遠くにある日)」の「つ」と同じだろう。「家にいる子」である。
やっこと言えば「冷や奴*5」である。奴豆腐を冷やしたもの*6で、奴が着ていた半纏には四角い大きな紋*1があって、豆腐がそれに似ていたことから「奴豆腐」と言う様になったらしい。
*1 yakkodako.jpg
*2 yakko.jpg
*3 松岡正剛の千夜千冊『やくざと日本人』猪野健治
*4 おみ 【 ▽ 臣】の意味 国語辞典 - goo辞書
*5 2分で作れる!ネギ油冷奴(ひややっこ) - [料理のABC]All About
*6 冷奴(ひややっこ) - 語源由来辞典
090416先日、冬眠から覚めたばかり*1の亀に逃げられた。逃げたのは去年に亀好きの近所のご夫人から頂いた幼亀二匹のうち一匹である。
この二匹は水槽が別にしてある。比較的小さい水槽で深さが10cm程度しかない。その水槽を庭に出したまま出かけてしまった。久しぶりに結構まとまった雨が降って水槽の水が一杯になってしまっていた。水槽の上には亀よりも若干小さい網目の網が張ってあったが、それをすり抜けてしまったらしい。
雨が降る日に出かけるときは、水を抜いておくのだが、すっかり忘れていた。小さいのでそんなに遠くには行けないだろうが、見つけるのは難しいだろう。
*1 亀の冬眠明け(8)br>
090417コウモリはドップラー効果を使って飛んでいる餌の動きを察知*1したりするらしい。初めて聞いた。コウモリが自分の鳴き声を使って闇夜の中でも障害物に衝突することなく飛ぶ*2ことが出来ると言うことは聞いたことがある。しかしドップラー効果も使うと言うのは初めて聞いた。
ドップラー効果*3とは、観測者や音源が動いていると元の音より高く聞こえたり低く聞こえたりする現象*4である。一番よく観測できるのは走っている救急車のサイレンの音である。自分に近づく時は、そのサイレン音は高く聞こえ自分から遠ざかる時は低く聞こえる。実際にはサイレンの音色は一定だが、救急車が近づく時は音の波が押されて縮まるので高い音に聞こえ、遠ざかる時は音の波が引き伸ばされるので低く聞こえる。コウモリはこのことを知っているらしい。
本当だろうか。自分の鳴き声が反射するかしないかで、障害物を検知することはできそうだ。進化の過程で反射音を聞き取れないコウモリは闇夜の中で木や岩に激突して淘汰されたに違いない。また狭い場所で飛び交っている時に相手の声が聞こえ難い個体同士は衝突してこれまた淘汰されていったのだろう。
鳴き声を高くすることにより更に細かい障害物を避けられる様になり、暗い洞窟の中でも暮らせるため天敵を避けることができて種が保たれた。
このため耳は相当発達している*5筈で、虫の羽音など簡単に察知して捕食できるようになったのであろう。人間でも暗闇の中で蚊の羽音を頼りに鬱陶しい蚊を退治することができる。とは言え、かなり苦労する場合が多い。コウモリは鳴き声を発しながら闇の中を餌を探しに飛んでいく。虫の羽音を聞けばそちらの方に飛んでいって捕食するのだろう。その途中で自分の鳴き声の反射音が聞こえたら障害物があることなので翻えるだろう。
こう考えるとコウモリ*5がドップラー効果を知る必要はない様な気がしてくる。そもそもどうやってドップラー効果を知ったのだろう。近づく物体からの反射音は高くなり、その逆は低くなるという物理現象を利用した行動を進化の過程でどのように獲得するのだろうか。想像がつかない。
ある個体がその能力を突然獲得したとする。音の高さを比較するのは脳による情報処理だろうから、次世代にその能力を継承するには親と子との間で情報のやり取りがないと駄目だろう。そんな高度なことがコウモリにできるのだろうか。
*1 コウモリと蛾
*2 コウモリ初級編
*3 速度違反
*4 ドップラー
*5 NHK高校講座 | ライブラリー | 生物 | 第24回 第4部 動物の受容と反応 刺激の受容と反応
*6 About Bats こうもりのページ
090418コウモリ*1の様に自分の鳴き声で、周りの様子を察知する動物にイルカ*2がいる。イルカ*3は自分の鳴き声の反響で障害物があるかないかだけではなく、大きさや形までも解ると言う。この能力を使って捕食までしているらしい。本当だろうか。
ガンジス川には「ガンジスカワイルカ*4」が棲息しているらしい。ガンジス川の濁った水の中で棲息しているため、目が殆ど見えなくなっていると言う。自分の鳴き声の反響で周りの環境を把握して、捕食活動をしている*5と言うのだ。
濁った水の中で音を頼りに生きているのだから、コウモリと一緒で耳がかなり発達しているのだろう。ガンジスカワイルカ*6に限らず、イルカの場合は耳の穴はなく、音の振動はあごの骨を伝わって中耳から内耳に入っていく*7ようだ。
鳴き声の反響で障害物があるかないかが解ると言うのは、想像しやすい。しかし濁った水の中で泳いでいる魚の位置まで鳴き声の反響で解ってしまうと言うのは凄い。棒杭や浮き木と魚を間違えることはないのだろうか。仮に間違えても吐き出せば済むことであるが、それ程イルカは目が見えないのか。何となくだが、ガンジスカワイルカは目に見える範囲の魚しか捕食できないのではないか。餌を見つけるまで川の中をうろつく。川の中には大きな石ころもあるだろうから、鳴き声を発しながらそれらを避けて泳ぐ。魚が目の前に現れたら、障害物を避けるために鳴きながら追いかける。
海のイルカも同じではないか。海の方は視界がもっとありそうなので、視力はガンジスカワイルカよりもあるかもしれない。鳴き声の反響を使った捕食*8は必要ないのではないか。
ところが水族館で飼育されているイルカは細かい形状の識別*9や材質の区別*10までも目隠しでできるらしい。これならば鳴き声の反響での捕食も簡単かも知れない。
考えてみるとこれは飼育員が教えたからできる様になったのだろう。できるからその能力を使っているとは限らない。イルカやアザラシなど水族館で見せてくれる曲芸を自然界では一切やらないに違いない。
*1 コウモリとドップラー効果
*2 イルカ
*3 蘇我入鹿首塚
*4 ガンジスとチリカ湖
*5 第2回 ガンジスカワイルカの音響観測 | すすめ! KDDI 研究所 | KDDI株式会社
*6 精神のエクスペディシオン
*7 イルカの耳
*8 本稿は日本音響学会誌, 52(7), 523-528に掲載されたものです
*9 形や物を識別"万能"イルカ 新パフォーマンス公開
*10 イルカの思考を解明する 村山 司 氏
090419小学二年の末の娘*1が風邪を引いた。熱が中々下がらない。学校を休んで三日目の夜に娘の寝床の傍らに置いてある体温記録表を見ると37〜8度だったのが突然39度に跳ね上がっていた。これは風邪じゃないかも知れないと思って、再度医者に診てもらうことにした。
妻に話を聞くと医者は風邪だと言っていたらしい。考えてみるとどうも変だと妻は言う。体温表を付ける際、電子体温計*2の数字を娘に読ませていたようだ。もしかしたら「36」と「39」を読み違えたのではないか、と言うのだ。確かにデジタル表示の数字*3は読みなれないと間違えるかも知れない。
結局、四日目も熱が下がらず学校を休んだ。「36」を「39」を読み違えたのなら、三日目に一旦36度の平熱付近まで下がっていることになる。しかし次の日も熱が出て休んだ。もしかしたら「37」を「39」と見間違えたのかも知れない。それなら辻褄が合う。
*1 エビちゃんとアブちゃん
*2 体温計
*3 7セグメントLED
090420オタマジャクシの語源は「お玉杓子」である。杓子は食べ物を掬う柄の付いた道具*1で、掬う部分が丸く玉の様になっているから玉杓子である。「杓」は柄杓(ひしゃく)のことで、「子」は大抵は小さい物を表すから、小さめの柄杓だ。
お玉と言うと、こんなのを想像*2するが、本来は黒漆の小さめの杓子*3を指す。明治時代の辞書に「志やもじノ、小クシテ、黒漆ニ塗レルモノ(東京婦人語)」とある。
これならば蛙の子の「オタマジャクシ」にぴったりだ。蛙の子の「オタマジャクシ」の語源*4はこれに違いない。
御多賀杓子(オタガジャクシ)が転訛*5したと言う説がある。御多賀杓子の多賀とは「多賀神社*6」の多賀である。奈良時代、元正天皇の病気平癒祈願の際、お供えの飯にシデの木の杓子を添えたところ元気になったことから、杓子が名物になったらしい*7。
井伊直弼*8が多賀杓子を使って作った菓子器*9があるようだ。杓文字の柄の部分を切って作ったらしい。これを見ると多賀杓子と言えども飯を盛る普通の杓文字と変わらない。蛙の子とそれ程似ていない。やはりお玉杓子がオタマジャクシの語源なのだろう。
明治時代の辞書*10によるとオタマジャクシは「蛙子(かえるご)」とも呼ばれていたと書いてあった。こちらの方が直截的な表現なので、元々はこう呼ばれていたのだろう。
*1 しゃもじの語源
*2 319NPTGGQSL._SS500_.jpg
*3 玉杓子(黒スリ)|漆器(木製)の専門店【こばやし漆器】
*4 ゲンゴロウ
*5 オタマジャクシ・御玉杓子
*6 多賀大社
*7 月〜金曜日 20時54分〜21時00分 滋賀・多賀町、彦根市
*8 巻の4 決断! 開国と大老井伊直弼 井伊直弼画像(彦根・清凉寺蔵)
*9 1228_img.jpg
*10 半田の語源
090421最近、百歳まで生きたいと思う様になった。何歳でも長ければ長い程いいと昔から思っていたが、人間には限界がある*1ので「長く生きられれば長い程いい」と考えるのは無意味だと今更ながら気付いた。統計学的にヒトの最長寿命は120歳程度*2らしいので、ひとまず目標を百歳にしてみた。
百歳と言うのは非常に切りのいい数字*3である。それが人間の限界にほぼ近いと言うのは、偶然なのだろうか。まぁ、偶然だろう。百年と言うと太陽の周りを百回廻ることになる。日本にいれば四季をそれぞれ百回経験する。梅や桜の花を見るのも、暑い暑いと文句を言うのも、紅葉を見るのも、初日の出を見るのもそれぞれ百回である。こう考えると「たった百回」という気もしてくる。鼠の寿命は数年*4しかないので、これに比べれば「たった」ではない。
既に何十回も太陽の周りを回ってしまっているので、これから百回までの残りの回数を全うするにはどうすればよいか。
死ぬ原因を極力取り除けば百歳まで生きられるであろう。死因は大きく分けて三つある。病気、事故それに自殺である。事故の内、全くの偶発的に起こる事故の場合があるので、それに対する予防は不可能であるが、それ以外は予防可能である。自殺は筆者の生き方からしてある条件がないとあり得ないので、これは除外してもよい。ある条件は後で書く。病気に偶発は殆どないだろう。遺伝が由来の病気があるが、既に何十年も生きているのだから遺伝的に発病してそれが主な原因で死に至ることは殆どないだろう。今後百歳になるまで遺伝がきっかけで何らかの発病があるかも知れないが、それで死に至るのは他の要素の方が大きい様な気がする。つまり予防は可能と考える。
まず事故に依る死の予防である。交通事故が最も可能性が高い。これは気を付ければ防げる。どう気を付けるかが問題だが、常に何が起こるかを想定しながら通行するのである。漫然と通行するのは極力避けなければならない。七十歳以上になれば、交通事故に加え、転倒に細心の注意を払う。転倒し骨折して寝たきりになれば他の病気を誘発し死亡する確率が一気に上がる。また他者に相当な負荷を掛かることになる。
病気に依る死の予防はどうすれば良いか。病気に罹らないためには、日頃から健康的な生活を送れば良い。病気にならないことが健康なのだから「健康的な生活を送れば良い」と言う表現は何も言っていないのと同じだ。病気にならない様にする具体的な行動は何か。歩くことと適切な食事だろう。日頃から歩いていれば転倒の予防にもなるだろう。老化は足腰から進むので、老化を少しでも遅らせて活動範囲の縮小を止める。活動範囲の縮小は精神に悪影響を及ぼす。ぼけ*5を防ぐためにも足腰は重要である。食事では発癌性のある食品はできるだけ食べない。全てを排除することは難しいし、味気ない食生活になってしまうので、神経質にならずにできるだけ食べない様にする。規則正しい生活も重要だろう。過度な精神的緊張は避ける。くよくよしない。他人を許す。身体的にも精神的にも健康*6であることが百歳まで生きる条件である。
途中で寝たきりになったり、ぼけてしまったらどうするか。これでは生きていても仕方がないので自ら命を絶つしかない。精神がはっきりしていれば、まだ生きる意味はあるかも知れないが、精神が朦朧としていてはどうしようもない。死ぬ他ないが、そうなれば自殺することもできない。自殺できる内にしておけば良いが、もしかしたら元に戻るかも知れないと言う期待もある。結局、百歳まで生きるのは自分の努力ではどうしようもない部分もあるので、後は天に任せるしかない。
*1 東京都老人総合研究所
*2 寿命と遺伝子
*3 人の寿命と宇宙
*4 ねずみ
*5 恕
*6 World Health Organization - Centre For Health Development
090422一週間後に能舞台の出演を控えている。伊勢神宮の奉納能楽*1である。前回、出演した時は非常に短い謡(うたい)を披露するだけで良かったが、今回は沢山出演しなければならない。まず舞台に一人で出て謡う「独吟*2」がある。今回披露する謡は六分位の長さがある。伴奏も何もなく一人で謡うので結構大変だ。
更に能の地謡(じうたい)にも参加する。能*3は一連の劇で上演時間が大体一時間から二時間程度である。地謡*4とは、能の中で合唱を担当する集団で主人公の心中などを謡で表現する。歌詞を覚えるのも大変だが、上演時間中は正座でなければならないのがきつい。
足のしびれ対策に正座椅子*5を使う予定だ。袴の中に入れておけば外から判らない。一緒に稽古をしている先輩に作って頂いた*6。尻を乗せる部分に西洋手拭いを乗せているのは高さ調整の為である。袴の隙間から見えるかも知れないので、手拭いも焦げ茶色の物を使っている。こうやって見るとチェブラーシカ*7みたいだ。
普段の練習で使ってみる。使わないよりはましだが、やはりしびれが切れる。件の先輩に相談すると「使い慣れんと駄目だ」と言われた。なんて厳しい世界なのだ。
*1 伊勢神宮奉納能楽
*2 能の誘い / 能について / 能楽用語集(独吟)
*3 能の誘い / 能について / 能楽用語集(能)
*4 能の誘い / 能について / 能楽用語集(地謡)
*5 日本正座協会 -正座椅子情報-
*6 IMG_0532.jpg
*7 チェブラーシカ - Cheburashka
090423最近、百歳まで生きたい*1と思うようになった。もし百歳に到達せずに痴呆症や寝たきりの状態になったら自殺を考えたいと書いた。仮に自分自身ではなく、自分の肉親や配偶者がこのような状態になり、そんなことを言い出したら素直に受け入れることができるだろうか。
非常に難しい。自分の大切な人には末永く生きていて欲しいと思うが、願いは叶えてやりたい。客観的に見て恢復の見込みはなく本人もこれ以上生きる意味がないと思っていれば、あえてそれを否定して生きるべきだと納得させる必要はない。
精神がはっきりしている状態で寝たきり*2になって、自分としてこれ以上生きる意味無しとなれば、自分で死ぬことができるかもしれない。寝たきりなので死ぬには服毒しかないだろう。周りの人に「毒を持ってきてくれ」と言っても通常は引き受けてくれないだろうし、事情を良く理解してくれたとして毒を提供したら自殺幇助*3となり、その人は罰せられることになる。迷惑をかけずに本懐を遂げるには完全に寝たきりになる前に自ら毒を調達しておかなければならない。
問題はボケた場合*4である。痴呆症はに自覚できるものなのか。できるとすれば行動できるかも知れない。しかしボケると言うことは思考能力が衰退することである。自覚はできても、思考能力が衰退する中で生きる意味無しと決断し自ら行動することができるのだろうか。となると自殺は不可能ということになる。
安楽死*5がある。安楽死の定義*6が「苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる『死なせる』行為」だとすると、ボケた人にこれを適用することができるだろうか。「苦しい生ないし意味のない生」と感じるのは本人に間違いないのだが、そう感じているのは現にボケている本人ではなく、過去の本人なのである。過去に本人がそう言っていたからと安楽死をさせたら、事情を知らぬ周囲からは殺人または介護責任の放棄だと思われるだろう。
人間は、生きることも死ぬことも難しい。
*1 百歳まで生きる
*2 寝たきり老人の介護
*3 s1212-6i02.pdf
*4 財団法人 ぼけ予防協会
*5 人を殺すということ(2)
*6 尊厳死と安楽死
090424日本語の文の中で何が主語かを考える時がある。「象は鼻が長い*1」という文の主語は何かと言う、試験問題や言語構造の研究の様な解析ではなく、実用上の話である。誰が何をする、誰がどうするというのが判り難い文に出くわした時、主語は何なのかを考える。それ以外で、「どれが主語か」を考える意味はあまりない。主語が明記されてなくても、主語がどれかはっきりしなくても文意が掴めればそれでいい。
そもそも主語*2とは何か。文においてある動作を行うものやある状態になっているものを示し、論述の発端となる部分だろう。帰結する部分が述語である。文*3とは何か。考えなどを言語で表現する際の、完結した内容を表す最小の単位である。
すると「象は鼻が長い」と言う文の主語は何かと考えれば、「象は」でもいいし「鼻が」でもいいだろう。一つの文に同時に主語が二つあっても別に問題はない。意味さえ通じればいいのだから。この文で「長い」という状態になっているものは「象」でもあり「鼻」でもある。よく似た表現でも「象の鼻は長い」であれば、主語は「鼻は」だけになる。日本語の場合、主語が省略されても表現法として間違いにならない。だから主語が二つあってもいいと言うことにはならないが、柔軟性を持たせて考えてもいいのではないか。文中に主語は必ず一つあると言うのは西洋語の考え方であろう。
日本語文の中で主語がどれかを厳密に決めることによって得られる利益は文化的もしくは学術的なことに限っても殆どないと思う。
*1 (5) 象は鼻が長い
*2 しゅご 【主語】の意味 国語辞典 - goo辞書
*3 ぶん 【文】の意味 国語辞典 - goo辞書
090425そもそも百歳まで生きようと思った*1きっかけは、「老いない技術*2」という本を読んだからである。確か本屋か駅の売店で見かけて買った。
その中に「自分は健康である」と思い込むだけで老化を遅らせることができると書いてあった。著書の中には非常に健康と思っている人とあまり健康でないと思っている人との死亡危険度が二倍程度違うことを示す図表*3が載っていた。
「死亡危険度」というのがどういう定義なのかよく判らない。同じ人での比較、健康と思っている場合とそうでない場合の比較は不可能である。となると健康と思って一生を終えた人とそうでない人の寿命の比較だろうか。そうなると死亡の原因と言うのは人それぞれであるので、単純な数量比較は難しそうな気がする。「自分は健康である」だと思い込むことが長寿や老化を遅らせることに貢献することは判るが、その度合いが「二倍」と言うのは、各個人にとってどういう意味があるのかさっぱり理解できない。
死ねば終わりなので「死ぬ危険が二倍」と言われて何が二倍だと考えればいいのだろうか。一卵性の双子でしかも全く同じ生活環境で、健康に関しての思いが全く逆の時、健康だと思っていた方よりもそうでない方が半分の寿命であるということなら 判りやすい。まぁ、常識的に考えてそんなことはあり得ないし、二倍なのは「危険度」であって、「寿命」とはどこにも書いてないので、別の指標なのだろう。
「自分は健康だ」と思い込むことを「主観的健康感*4」と言うらしい。これで老化を遅らせる何らかの効果があると言うのはいい。簡単でしかも只である。思い込みは筆者の得意技なので、どんどんそう思い込んでいる。
*1 百歳まで生きる(2)
*2 asahi.com(朝日新聞社):老いない技術ム元気で暮らす10の生活習慣 [著]林泰史 - 新刊エクスプレス - BOOK
*3 元気で長生きの十か条 jikokennkoudo.jpg
*4 高齢者における主観的健康感の有用性に関する研究
090426宛先不明で郵便物が戻ってきた。去年出した年賀状*1が今頃戻ってきたのである。五ヶ月も経っている。こんなことは普通は起こらない。起こった理由は海外に出したからだろう。宛先はドイツだった。
ドイツで五ヶ月止まっていたのか、日本国内で止まっていたのか。ローマ字のシールが貼ってあった。一番上に「Zurück/Retour」とドイツ語とフランス語で書いてある。「戻り/返却」と言う意味だ。下には戻しの理由が並べてあり、ドイツ語とフランス語とで「宛先不明」「受取人引越し」「受取拒否」「未請求?(Nicht abgeholt/Non réclaméと書いてある)」「不許可」とあって、「宛先不明」の所に印が付けてあった。一方、日本語のシールも貼ってあって、そこには「差出人もどし 受取人あて所に尋ねあたらず 郵便事業株式会社 神戸支店 国際郵便課」と書いてある。
差し出し人の所には、日本語しか書かなかった。「JAPAN」もしくは「JAPON」とも書いてない。これが原因で、欧州で留まってしまい戻すのにかなり時間が掛かってしまったのだろうか。切手を見れば「NIPPON」と書いてあるから日本からの差し出しと判る様な気がするが、そこまで気を回してくれる人が欧州の郵便局にはなかなか現れなかったのだろう。
*1 年賀状(9)
090427光速は不変か。そもそも光速とは何か。現在、長さの基本である「1m*1」という長さは光が1秒間に進む距離で定義*2されている。光の速度が長さの基準になったのは、宇宙のどこでも光速は不変であるという仮定を基にすれば普遍的な基準になる*3ということで採用されている。これにより、光の速度はどこで測定しても「299792458m/s」となり、1mmも誤差はない*4。そもそも定義だから誤差と言う考え方はない。「299792458」ポッキリ*5である。
だから光速は不変と言えるのか。光は屈折する。空気中からガラスや水の中に光が入射すると直進する性質があるにも拘らず、進路が曲がってしまう。この原因は光が伝搬する空間の様子が変化することに依る。光が今まで空気中を進行していたのに突然、ガラスに入ると光の何か*6が変化する。この光の何かは光の勢いの様な物を表す量なのである。
光は波だから山と谷との繰り返しだ。山と山、もしくは谷と谷との間隔が波長、1秒間に何回この繰り返しが通過するかが周波数である。波長と周波数とを掛け合わせれば1秒間に進む光の長さになる。つまりこれが光の速度になる。
一方、光が屈折する時には光の周波数は変わらない。変わってしまうと光が空気とガラスとの境界を通過する前後で時間当りに進行する山や谷の数が合わなくなってしまい、光の波の山が溜まってしまったり足りなくなったりしてしまう。光が伝搬する空間の様子が変って、それによって光の何かが変わる。その「何か」とは波長や光速なのである。ガラスや水は分子でできている。分子は原子で構成され、原子は原子核と電子とでできている。原子核と電子はそれぞれ電気を帯びている。光は電気と磁気と組み合わせの波*7である。それが電気を帯びた空間を通過するのだからどうしても影響を受ける。目に見える光の場合は、水やガラスの中では光速が真空中よりも遅くなっている*8。逆に波長が極端に短くなった光の一種でもあるX線は金属中では真空中よりも速くなっている*9。光の速度が遅くなったり速くなったりするので、その変化点で光の行程が曲がったりするのである。
つまり光速は不変ではない。前述したように時には真空中の速度よりも速くなることがある。それでは相対性理論における光速不変*10とはどういうことなのか。相対性理論で光速不変とは「真空中」と言うことであろう。では「光の速度を超えられない*11」のはどう説明すればいいのだろう。金属の中ではX線は光の速度を超える。
光の速度を超えたX線と言うのは、その波の山や谷が移動する速さが真空中の光速よりも速いのであって、波全体の移動の速度ではないらしい。光が届いたかどうかを区別する為には光の波が途切れないと判らない。つまり光の波全体の始まりがないと波の位置がはっきりしない。位置が判らないと全体の速度が決め難い。この波の始まりの部分を波頭といい、その伝搬速度を波頭速度*12と言うらしい。この速度は真空中の光の速度「299792458m/s」を超えないらしい*13。X線も例外ではない。これがよく判らない。山や谷の移動速度が速くなれば、つられて先頭も速くなるのではないか。否、つられるのではなく、まず先頭の山と谷とが境目で速くならないと光の波が渋滞するではないか。だが、真空中の光速を超えれば相対性理論で言う因果律が崩れてしまう。どう考えればいいのか。
恐らく渋滞しているのだろう。空気中から金属中に入射したX線の最先端の波長は縮まり、前述の「光の何か*14」が変化して熱に変わっているのかも知れない。
*1 メートル原器
*2 BIPM - metre
*3 産総研・サイエンス・タウン 世の中の基準を創って守るために 「"ものさし"のふるさと!?」
*4 光の速度
*5 ポッキリ
*6 2 光子一個当たりの角運動量と運動量
*7 電磁波の基礎知識
*8 理科の基礎理論
*9 Mirror-Primer
*10 1-2/相対性理論
*11 1-4-2、だから光の速さも超えられない
*12 光速をめぐって
*13 OYO BUTURI, Vol.74, No.06 (2004)
*14 1-5、光と質量
090428幼少の頃に読んだことのあった絵本を購入した。「シナの五にんきょうだい*1」である。話の筋に全く記憶がなく、挿絵だけが印象に残っていた。だから題名も完全に忘れていた。ある日、web上でその懐かしい挿絵を見つけた。これで絵本の題名が判ったので、早速購入した。本は衝動買いが必要*2なのである。あとで買おうと思っても品切れになっていたり、その本のこと自体をすっかり忘れてしまって、永久にそれを読む機会がなくなる可能性もある。気が付いたら本は買う。
五人の兄弟はそれぞれ超能力の持ち主で、皆で協力して難局をくぐり抜ける話である。1938年の作品。幼少の頃に読んで記憶に残っていた挿絵は、一番上の兄が海の水を飲み干してしまい、飲んだ海水で顔がはち切れんばかりになって海辺に立っている場面だ。干上がった海の底には魚や海藻や貝が転がっていて、遠くには沈没船なども見える。全てが萎れており、いかにも干上がったと言う感じがしていた。
何十年も経て再び目に知ることができた。本の衝動買いは間違っていない。
*1 fivebrothers.jpg
*2 本の買い方
090429今日、初めて、能に出演した。伊勢神宮の能舞台*1で出た。出たと言ってもその他大勢のような役である。地謡*2と言う合唱団の一員を務めた。能*3は形式の定まった演劇である。舞台の構成*4は、大きく分けて三つの役目に分かれている。一つは主人公や脇役を演ずる者、一つは小鼓や太鼓を演奏する者、残りは合唱を担当者に分かれる。主人公を「シテ*5」脇役を「ワキ*6」、それぞれに連れられて登場する者を「ツレ*7」「ワキツレ」と言う。演ずる者をシテ方(かた)、ワキ方(かた)といい、それぞれ専門の流派がある*8。彼らが檜舞台の上でそれぞれの役を演ずるのである。楽器は小鼓、大鼓、太鼓、笛があり、演奏する者を「囃子方」と称し、これもやはりそれぞれを担当する流派がある。合唱は「地謡(じうたい)」と言い、これはシテ方が担当する。能舞台に向かって右端に並んで正座する*9。今回の出し物では地謡は、十一人構成だった。前後に列に並び、後列の中央付近には地謡の頭となる地頭(じがしら)がすわる。筆者は前列の一番奥、観客席から最も見難いと思われる場所に座った。
合唱なの少々歌詞を忘れても殆ど問題はない。問題なのは正座である。シテ方に予期せぬ事態が発生したため、出し物の時間が短縮された。一時間十分程度の上演時間が一時間弱になった。とは言え三十分以上正座していれば、しびれが切れるのは同じである。足がしびれると足首から下が全く制御不能になってしまい、満足に立つことができなくなる。最悪の場合、動かせるつもりで立ち上がり、転倒して骨を折ることもあるらしい。今回は足しびれ対策に正座椅子*10を使った。この椅子を作って頂いた先輩の助言に基づき椅子を使った正座の練習をして能の初出演に臨んだのである。
しかししびれが切れた。利き足の右足は良かったが、左足は自分が立ち上がるまでに完全に恢復していなかった。転倒まではしなかったが、よろけて捻挫をしてしまった。非常に軽い捻挫なので、この後に何件か数分から十数分程度の出し物への出演には影響しなかった。件の先輩に「どうだった」と聞かれた。駄目だったと答えると「歩く時にしびれが切れた方の足の爪先を使っていかん。踵だけであるくようにせんといかん」と教えてくれた。
能楽を職業としている能楽師が演ずる本格的な能に参加する機会を得て非常にいい経験をした。舞台に出る前の張り詰めた空気や緊張感、永く受け継がれてきた芸能*11の創り出す空間と一体化している自分を感じるのは楽しかった。
*1 伊勢神宮奉納能楽(2)
*2 能の誘い / 能について / 能楽用語集(地謡)
*3 日本財団図書館(電子図書館) 鑑賞の手引き「能と狂言」
*4 能舞台|能楽事典|大槻能楽堂
*5 能の誘い / 能について / 能楽用語集(シテ)
*6 能の誘い / 能について / 能楽用語集(ワキ)
*7 能の誘い / 能について / 能楽用語集(ツレ)
*8 各役の説明 | 能楽とは | 能楽事典 | 社団法人 能楽協会
*9 地謡(じうたい) | 演技と音楽 | 能の構造 | 能楽
*10 日本正座協会 -正座椅子情報-
*11 世界無形遺産
090430テレビジョンの広告で「67億分の1の奇跡」という文言が流れていた。結婚式場の宣伝である。最初は、ヒトの一回の射精において一匹の精子が卵子と出会って受精*1する確率の話かと思ったが、すぐに違うと気付いた。結婚式場の話だから受精は大抵は結婚式の後だ。結婚式の前で受精したとしても、式場の主役は結婚する当人達であって、彼らの愛の結晶ではない。67億とは世界の総人口*2の意味だろう。それにしても桁が大き過ぎてピンと来ない。
一回の射精で放出される精子の数は大体数億匹程度*3らしい。67億よりもかなり少ない。それは別として、自分たちの巡り合わせが「67億分の1の奇跡」というのは少々大袈裟な様な気もしないでもない。結婚式に幻想を抱くのは新婦の仕事だから仕方がないが、落ち着いて考えるとやはり舞い上がり過ぎであることは否定できない。まぁ、別に問題は全くない。
世界人口の半分は自分と同性だから、分母は67億の半分だろう。更に15歳以下は結婚相手の対象となり得ない*4し、老人の多くは対象にはならない。日本人の年齢別における人口分布で15〜64歳が占める割合は大体70%*5である。 この分布が全世界同じとして考えると結婚の相手としてなり得るのは23億人ぐらいになる。
全世界で23億人の中から相手を選ぶ訳ではなく、偶然に出会う人から選ぶのだから、上の計算は全く意味がない。一生のうちに出会って話をする異性は千人いくだろうか。それ程多くない選択肢から一人を選んで長い年月一緒に暮らすのだから、こちらの方が奇跡だろう。
*1 受精のしくみ|妊娠・出産コラム|妊娠・出産のここカラダ
*2 世界の人口
*3 精液と精子
*4 民法・第4編 第1節 婚姻の成立 第1款 婚姻の要件
*5 統計局ホームページ/人口推計/平成16年10月1日現在推計人口
伊勢の能*1での演目は「羽衣*2」だった。天女伝説を能にしたもので、作者は世阿弥*3と伝えられている。
物語の舞台は三保の松原*4である。春の朝に白龍(はくりょう)という名の漁夫が浜辺を歩いていると何もない空から花が降ってきて音楽が聞こえ、何とも言えない香りがする。これは只事ではないと思っていたら松の枝に衣が掛かっている。近寄ってみるとこれまた色香が素晴らしくこの世の物とは思えない。家の宝にするために持って帰ろうとする。すると天女が出てきて「ねぇねぇ、それ、私のよ」と白龍を呼び止める。台詞は「のうのう。その衣はこなたのにて候」だが、天女の見た目は美しく若い女性なので、今風にすればこんな感じだろう。その衣は天人の羽衣なので人間にそぐわないから返してくれと言うと、白龍は天人の物なら国の宝にしなければならない、絶対に返せないと言い張る。
羽衣を返してもらえない天女は天上世界に帰れないとひどく嘆き悲しむ。その様子があまりにも哀れなので、白龍は衣を返そうとするが、その前に天人の舞楽を見せてくれと言い出す。天女は嬉しくなって、衣を返してくれるならいくらでも舞を見せられるが、衣がないと巧く舞えないのでまずは返してくれと頼む。すると白龍は「先に返せば、舞いを見せずに天に帰ってしまうのだろう」と疑う。それを聞いた天女は「そうやって疑うのは人間だから。天人に偽りなんてないわ」と返す。白龍は「うわぁ恥ずかしい、言う事が立派だ」と言いながら衣を返す。
衣を身に着けた天女は約束通り優雅な舞楽を披露する。月の世界や三保の松原を讃えながら舞う。やがて、天女は風に乗って三保の松原から浮島ヶ原*5へ、そして愛鷹山*6や富士の高嶺*7へと舞い上がり上空の霞みに紛れて消えてしまった。
衣を返してもらえなかった天女の衰弱ぶりは相当なものである。「涙の露の玉鬘」という地謡*8の歌詞が出てくる。大粒の涙が髪飾りのようになって出ていると言う意味だろう。髪飾りの花*9もしおれている。そしてついに「天人の五衰」が現れてきた、と謡われる。五衰というのは天人が死ぬ時に現れる五つの身体的特徴のことである。まず天衣に垢が付き、頭の華鬘(けまん)*10がしぼみ、脇の下から汗が出て、身体に臭気を生じ、天人としての境遇が苦痛になるらしい。そんな様子を見て白龍は衣を返そうと思うのであった。
若くて美しく見える天女の脇*11から汗が出て、体から臭気が生じてくると言うのは、現実的で何となく艶かしくてなかなか良い。
*1 伊勢神宮奉納能楽(3)
*2 能・演目事典:羽衣:PhotoStory
*3 世阿弥のことば
*4 三保の松原(静岡市)
*5 ハローナビしずおか 静岡県観光情報/浮島ヶ原自然公園
*6 愛鷹山
*7 富士山NET
*8 かざし 【〈挿頭〉】の意味 国語辞典 - goo辞書
*9 地謡(じうたい) | 演技と音楽 | 能の構造 | 能楽
*10 華鬘(けまん)
*11 恐怖の報酬
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